金田一耕助ファイル11    首 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  生ける死仮面  花園の悪魔  |蝋《ろう》|美《び》|人《じん》  首    生ける死仮面      一  上田秋成の名作『雨月物語』のなかに、『|青《あお》|頭《ず》|巾《きん》』という短篇が入っている。  秋成は男色に興味をもっていたと見えて、雨月物語のなかには、ほかにもそれに関する短篇が入っているが、青頭巾は男色のなかでももっとも|凄《せい》|惨《さん》な事実について語っている。 『雨月物語』を読んでいないひとのために、いまここに、その筋を簡単にお話ししておくことにしよう。  下野の国、富田の里の上の山に、一宇の寺があり、そこになにがしの|阿《あ》|闍《じゃ》|梨《り》が住んでいた。  この阿闍梨もとは篤学修行の聞こえもめでたく、里のひともふかく帰依していたが、あるとき、越の国より見目うるわしい童児を連れてかえってより、年来のつとめも、いつとはなしに怠りがちになった。  そして、ひたすら童児の|寵愛《ちょうあい》にふけっていたが、かりそめの病いがもとで、その童児がむなしくなってからというもの、悲嘆のあまり心狂い、気みだれて、死体を葬ることもせず、生きていた日にたがわず戯れていたが、やがて肉のくさり、ただれることを惜しんで、肉をくらい、骨をなめ、はては死体をくらいつくして、生きながら鬼になったというのである。  ところが、昭和二十×年八月二十八日の朝刊は、この『青頭巾』を|彷《ほう》|彿《ふつ》たらしめるような事件を報道して天下の耳目をおどろかせた。  その事件というのはこうである。  その前夜、すなわち昭和二十×年八月二十七日の夜、十一時過ぎのこと、東京都杉並区T警察署管内駐在所配属の山下敬三巡査は、自分の受け持ち区域を|巡邏《じゅんら》中、H山付近にあるアトリエのまえを通りかかった。  このアトリエというのは、前方に某製薬会社のグランドをひかえ、後方にはひろい杉林を背負い、周囲一丁あまりには、一軒の人家もないという、寂しい場所に建っているのだが、山下巡査は数日まえからこのアトリエに少なからぬ好奇心をもっているのである。  このアトリエの主人は古川小六といって、三十五、六の彫刻家だが、ここ数年このひとが、製作に従事しているところを見たひとは絶えてなかった。  なんでもむかしは相当ものをもっていて、金利生活ができるような身分だったので、道楽にアトリエなども建ててみたが、彫刻など、ほんの素人の余技にすぎなかったということである。  それが戦後の経済界の変動で、すっかり|逼《ひっ》|塞《そく》してしまって、ひところはひろい敷地を利用して、|山羊《やぎ》をたくさん飼ったりしていたが、それも失敗したのか、いまではやめている。しかも、去年の秋には母屋をとりこわして、どこかへもっていってしまったので、いまでは六百坪あまりの敷地のなかにのこっているのは、ペンキがはげてこわれかかった、古ぼけたアトリエばかり。  ひとのうわさによると、細君が情夫をこさえて逃げたので、母屋もいらなくなったのだという話であった。おそらく、あまり意気地のない亭主に、細君も愛想をつかしたのだろう。  だから、いまでは彫刻家古川小六は、武蔵野特有の防風林にとりかこまれ、丈なす雑草に埋もれた、化け物屋敷のようなアトリエで、ただひとり、自炊生活をしているのである。  さて、山下巡査がこのアトリエに、どうして好奇心をもっているかというと、それはつぎのような事実があったからである。  その日よりかぞえて、二週間ばかり以前のことであった。  やはり夜の十時ごろ、山下巡査が巡邏中、このアトリエのまえまでさしかかると、向こうから、リヤカーをひっぱった男がやってきた。山下巡査が懐中電気の光をむけると、それは古川小六だった。 「やあ、いまごろどちらへ」  山下巡査が声をかけると、 「なあに、ちょっと……」  と、小六は無愛想な返事をして、そのまま門のなかへ入っていこうとする。  山下巡査がなにげなく、リヤカーのなかをのぞいてみると、なんとそこには、十七、八の少年が眠っているのか、ぐったりと目をつむっているではないか。 「おや、この子はどうしたんですか」  山下巡査が驚いてたずねると、 「いや、こいつ|親《しん》|戚《せき》のものなんですがね。急に気分が悪くなったというので、医者のところへ連れていったんです。眠り薬を注射してもらったので、いいあんばいにおさまって、いまよく寝ているところです」 「お医者さんはどちら……?」 「川北さんです」  そっけなくそう答えると、リヤカーをひっぱって、小六はさっさと門のなかへ入っていった。門といっても二本の丸太が立っているばかり、扉もなにもついていない。  山下巡査は小首をかしげながら、ゆっくりアトリエのまえをはなれたが、なんだか気になるので、駐在所へかえる途中、川北医院へよってみた。 「いま、彫刻家の古川小六という男が、十七、八の男の子を連れてきましたか」 「ええ、来ましたよ」  川北医師はなにかしら、意味ありげににやにやしていた。 「どこが悪いんですか。相当参っているようでしたが……」 「なあに、ヒロポン中毒ですよ。それに肺も相当やられているようでしたね。なんだか急に|狂躁《きょうそう》状態におちいったというので、鎮静剤の注射をしてやったんです」 「名前はなんといってました」 「あの少年ですか。こうっと……」  と、川北医師はカルテを調べて、 「青山三郎……満十八歳。親戚のものだといってましたがね」  川北医師はそこでまた、にやにやと意味ありげな笑みをもらしたが、つい最近、この方面へ配属されたばかりの山下巡査には、医師の微笑の意味がわからなかった。  それからまもなく、山下巡査は、駐在所へかえってきたが、なんだか気になるので、同僚にその話をすると、 「十七、八の少年だって? それできみ、そいつ相当の美少年じゃなかったかい」  と、同僚もまた意味ありげなにやにや笑いをしながらそうたずねた。  そういえば、懐中電気に照らされたその少年は、色の小白い、中高の顔をした、ちょっときれいな少年だった。ただ、髪が乱れ、鼻の下や|顎《あご》にもしゃもしゃと、うすいひげが生えていたので、そのときはそうも思わなかったのだけれど。  山下巡査のことばをきくと、同僚は急に深刻な顔色をして、 「やっこさん、また病気が出たな。そっけない男だけれど、あの病気さえなきゃ、そう悪い人間じゃないのだが……」  と、そこで同僚の語るところによると、彫刻家古川小六というのは、この|界《かい》|隈《わい》でも有名な男色家だというのである。  かれはつぎからつぎへと、上野や浅草へんから、|眉《び》|目《もく》秀麗の美少年を連れてきてはかわいがるのである。それらの少年のなかには、おとなしく小六の|愛《あい》|撫《ぶ》をうけて、のんきに暮らしているものもあったが、たいていは近所をあらしたり、婦女子にいたずらをしかけたりするので、よく近所で|悶着《もんちゃく》を起こした。  細君が逃げだしたのも、小六のそういう狂態に、愛想をつかしたからだろうと、同僚は語った。 「ほほう、するとさっきのやつも、どこかの浮浪児かな」  そういえば、乱れた頭髪、もしゃもしゃした無精ひげ、いかにも浮浪児らしいようすだった。 「そうさ、それにきまっている。細君に逃げられてからは、さすがに参ったのか、ここしばらくそういう話をきかなかったが、またぞろ病気が出てきたんだろ。うっふっふ、やっこさん、いまごろうまいことやってるんだぜ」  山下巡査と同僚は、顔見合わせて、くすぐったそうな笑い声をあげた。  それ以来、山下巡査はこのアトリエに、一種異様な興味をもっているのだが……。      二  さて、まえにもいった昭和二十×年八月二十七日の夜、十一時過ぎのこと、山下巡査はこのアトリエに近づくにしたがって、しだいに胸のおどるのをおぼえた。  山下巡査がこのアトリエに、ちかごろ強い好奇心をもっているのは古川小六の異様な性欲のせいばかりではない。  ここ数日、山下巡査はこのアトリエのそばを通るたびに、一種異様なにおいに気がつくのである。はじめのうち山下巡査は、それを山羊のにおいだろうと思っていた。  古川小六が山羊をたくさん飼っていたことはまえにもいったが、それらの山羊は三か月ほど以前、細君が逃げ出してまもなく、全部手ばなしてしまった。しかし、山羊小屋はこわされもせず、そのまま雑草のなかにのこっているのである。  時候が暑い盛りだったので、どうかするとそれらの山羊小屋からたまらない臭気をはなつことがあった。うっかり風下を通ろうものなら、ハンケチで鼻をおさえて、駆け出さなければならないようなこともあった。  だからはじめのうち山下巡査は、ちかごろ気のつく異様なにおいも、山羊小屋の臭気だろうと、かくべつ気にもとめなかった。  しかし、日がたつにつれ山下巡査の脳裏には、怪しい疑いがきざしてきた。  それはたしかに山羊小屋の臭気ではなかった。山羊小屋の臭気にまじって、もうひとつべつの、なんともいえぬいやなにおいがするのである。あのにおいはいったいなんだろう。  山下巡査はあれからのちも、ちょくちょく古川小六の姿を見かけることがあった。自炊生活をしている小六は、よく駐在所の隣にあるマーケットへ買物に来ていた。  よれよれのブラウスに|下《げ》|駄《た》ばきで、買物かごをぶらさげた小六の姿は、だれの目にも異様にうつった。いつ|櫛《くし》を入れたのかわからぬような|蓬《ほう》|髪《はつ》をもじゃもじゃ乱して、ギラギラと無気味に光る目を見ると、子どもたちは恐れて逃げ出した。  かれは必要なことば以外には絶対きかず、そのことばもごく低い、ぼそぼそとした声でいった。山下巡査はこちらへ配属されてからまだ日が浅いが、小六の笑顔にぶつかったことはなく、またかれが、ひとと|挨《あい》|拶《さつ》をかわしているのを見たことがなかった。  おそらくかれは家庭におけるのみならず、この社会全体からも、たったひとり、かけはなれて暮らしているのだろう。  しかし、それにしても、あの夜以来小六の姿は、ちょくちょく見かけるのに、少年の姿は、いちども見たことがなかった。あの少年はもうアトリエにはいないのだろうか……。  あの夜以来、山下巡査は|巡邏《じゅんら》の途中、アトリエのそばを通るときには、いつもとくに注意を払っていた。どこかにあの少年のけはいがしないかと……。  アトリエには、むろん周囲に|垣《かき》|根《ね》がめぐらしてあった。しかし、その垣根は見るかげもなく荒れ朽ちているので、道を通ると敷地のなかが見通しだった。まえにもいったとおり、家をこわしてもっていったので、そのあとが雑然と草にうずもれて、まるで|廃《はい》|墟《きょ》のようであった。  しかし、山下巡査がこれほど注意ぶかく見まもっているのに、少年のけはいはさらになく、しかも、あのいやなにおいは、日をへるにしたがって、いよいよ強くなってくる。どうかすると、|嘔《おう》|吐《と》を催しそうになるほどだった。山下巡査は今夜こそ、あのいやなにおいの源を、つきとめてやろうと思っている。だから、アトリエへ近づくにしたがって、いつか足音を殺すような歩きかたになっていた。ところが、アトリエのそばまで来たときである。山下巡査はふいにぎょっと立ちどまった。  このアトリエは六百坪という広い敷地をもっているのだが、まえには奥のほうに、相当大きな母屋が建っていたので、アトリエそのものは、道から三間とははなれぬところに建っている。いま、そのアトリエのなかから、男の号泣の声が聞こえるのである。  アトリエのなかでだれか泣いている。むろんそれは古川小六にちがいない。しかし、小六がなぜあのように泣くのだろう。  山下巡査はぞっとつめたい水でも浴びせられたような気がして、思わず道のあとさきを見まわした。暗い夜道には人影もなく、アトリエの屋根を覆うている、大きな赤松の|梢《こずえ》がざわざわと風に鳴った。  山下巡査はごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみこむと、もう一度道のあとさきを見まわしたのち、破れ垣のあいだをくぐって、敷地のなかへしのびこんだ。  アトリエの窓という窓には、全部くろいカーテンが垂れている。しかし、そのカーテンをとおして、ほの暗い光がもれているところをみると、古川小六はまだ起きているのである。山下巡査は足音に気をくばりながら、窓の下へしのびよった。  泣き声はもう聞こえなかったが、そのかわり、ぼそぼそと低い声がきこえた。  おや、それでは小六のほかにだれかいるのだろうか。あれ以来、姿を見せなかった少年が、またやってきたのだろうか。そして、いまの号泣も、少年との異様な|睦《むつ》|言《ごと》の感極まって発したエクスタシーのさけびだろうか。  しかし……、しかし、このいやなにおいは……? この嘔吐を催しそうないやなにおいは、たしかにアトリエから発するのである。  山下巡査はハンケチで鼻を覆いながら、窓のあちこちを物色したがやっと、ちょっぴりカーテンの、まくれあがっているところを見つけた。  窓は山下巡査の目の高さより、ほんのちょっとだけ高いところにあったので、山下巡査はなかをのぞきこむのに、窓がまちに両手をかけ、背のびをしなければならなかった。  そうして、山下巡査は、アトリエのなかを見たのである。  アトリエは二十畳敷きくらいのひろさであろうか。アトリエのことだから、天井の高い、がらんとした部屋のなかには、はだか電球がひとつだけぶらさがって、赤ちゃけた光をはなっている。  その電球の下にベッドがあって、ベッドの上に、だれか毛布にくるまって寝ているようすである。ちょうど光の外になっているので、顔はよく見えなかった。  さて、ベッドのそばに男がひとり、|椅《い》|子《す》に腰をおろしている。これまた顔はよく見えなかったが、よれよれのブラウスを着た格好からして、古川小六にちがいなかった。  古川小六はまえかがみになり、|膝《ひざ》の上においたものをいじくっている。ときどき、かたわらにおいた小卓のほうへのばす右手に、絵筆をにぎっているところをみると、絵をかいているのであろうか。  そうだ、古川小六はたしかに絵をかいているにちがいない。ベッドの上に寝ている人物の、顔のほうへ目をやっては、また、その目を膝の上に落とすところをみると、寝ている人物の肖像でもかいているのであろうか。  そのあいだも古川小六は、こごえでなにやらぼそぼそとつぶやき、そして、そのあいまあいまには、しきりに鼻をすすって泣くのである。  山下巡査は、突然、なんともいえぬ異様な|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのを感じた。  べッドの上に寝ているのは、きっとあの少年にちがいない。古川小六は愛する美少年の肖像をかいているのだ。  しかし、それではなぜあのように泣くのだろう。また、少年はなぜひとことも答えないのだろう。いや、答えないのみならず、ベッドの上の人物は、さっきから身動きひとつしないではないか。  それに……それに……嘔吐を催すような、なんともいえぬいやなこの臭気……。  古川小六は突然、膝の上に抱いたものを、かたわらの小卓の上においたが、そのとたん、山下巡査はおやと目をそばだてた。それは山下巡査が考えていたような画布ではなかった。なにやら白い、|楕《だ》|円《えん》型のもので、小卓の上におかれたとき、かたりと固い音を立てた。  古川小六はそれから絵筆を投げすてると、いきなり両手で頭をかかえこんだ。そして、はげしく蓬髪をかきむしりながら、|堰《せき》を切って落としたように号泣しはじめた。  |肺《はい》|腑《ふ》をえぐる。……と、いうのは、おそらくこういうときに使うことばだろう。山下巡査は、なにかしら、|凄《せい》|然《ぜん》たる鬼気におそわれて、なんども、なんども生唾をのみくだした。  ひとしきり泣きに泣くと、やがて古川小六は気抜けしたような顔をあげた。そして、ぼんやり、ベッドの上に寝ている人物の顔を見ていたが、急にそわそわあたりを見まわしはじめた。  山下巡査はその目つきを見たせつな、またゾーッと背筋をつらぬいて走る戦慄を感じた。それはたしかに常人の目つきではなかった。ギラギラと、狂気に近い熱気に燃える目だった。  古川小六はまたもう一度、部屋のなかを見まわした。そして、ブラウスをかなぐり捨てると、下はズボンひとつの裸であった。  小六はそっと、ベッドの上の毛布を取りのけたが、そのとたん、山下巡査は真っ赤に焼けた|鉄《てつ》|串《ぐし》を、脳天からぶちこまれたような大きなショックを感じた。  ベッドの上には、一糸まとわぬ赤裸のからだが横たわっていたが、それはもう明らかに死人であった。しかも、死後、相当時日のたった……。  古川小六がその死体とならんで、ベッドに横になろうとするのを見て、山下巡査はたまりかねてさけんだ。 「やめろ! やめろ! ばか!」  それから、警棒で窓ガラスをぶち破った。      三 「ああ、これが問題のデスマスクですね」  それはあの|凄《せい》|惨《さん》な『|青《あお》|頭《ず》|巾《きん》』昭和版事件が、天下の耳目を|聳動《しょうどう》させてから、一週間ほどのちのことである。  ふらりと警視庁の捜査第一課を訪れた金田一耕助が、等々力警部のデスクの上から取りあげたのは|石《せっ》|膏《こう》でつくったデスマスクだが、妙なことには、そのデスマスク、泥絵の具でべたべたと彩色してあり、それがデスマスクのもつグロテスクな感じを、いっそうグロテスクなものにしているのである。 「そうなんですよ。やっこさん、相好の識別もつかぬほど腐乱した死体の顔を見ながら、そのとおり、デスマスクにお化粧をしていたんだ。おそらく熱愛する稚児さんの面影を、いつまでものこしておきたいと思ったんだろうが、いや、まったく正気の|沙《さ》|汰《た》じゃないよ」  等々力警部はあの凄惨な現場の模様を思いだしたらしく、ゾーッとしたように顔をしかめた。  あの夜、等々力警部はT署からの報告によって、すぐに現場へ駆けつけたが、じっさいそれは目もあてられぬ惨状だった。  ベッドの死体はすっかり腐り、くずれて、鼻もちならぬ臭気をはなっていた。そして、そのいやらしい腐肉の上に、|銀《ぎん》|蠅《ばえ》がいっぱいこびりついているのを見たときには、さすがものに慣れた等々力警部もおもわず|嘔《おう》|吐《と》を催しそうになった。  古川小六はアトリエのすみに、手錠をはめられたまま立っていた。まだ半裸体のままで、ものにつかれたような目を、ぎらぎらと血走らせていた。ときどき、手錠をはめられた両手をあげて、雄牛のようにうめいたり、子どものように号泣したりした。 「それで、その男、べつに精神に異状をきたしているわけでもなかったんですね」  金田一耕助はデスマスクをデスクの上におくと、|山羊《やぎ》のようにやさしい目で、真正面から警部の顔をのぞきこんだ。  あれから今日まで一週間にわたる経過は、金田一耕助も新聞で読んで知っていた。そして、その意外ななりゆきに、耕助もちょっと興を催しているのである。 「それはそういう男だから、常人とはちがった神経をもっているんだろうが、厳密にいってべつに気が狂っているというわけでもないんです」  等々力警部は気むずかしそうに|眉《まゆ》をしかめている。なにかしら、苦いものでも吐きすてるような口調だった。  金田一耕助はにこにこしながら、 「ところで、ぼくがこの事件でおもしろいと思ったのは、これにはべつに大した犯罪もないんですね。それは、死体|凌辱《りょうじょく》というような罪はあるでしょうが」 「そうなんだ。わたしもはじめはあの死体、てっきり殺害されたもんだと思っていた。ところが解剖の結果、そうでないとわかったので、いささかがっかりさ」 「八月十三日の晩ですか、古川という男がその少年を、リヤカーで川北医院へかつぎこんだときにも、ひどく弱っていたというんですね」 「うん、そう、ひどいヒロポン中毒でね、それに肺も相当おかされていたらしい。古川の話によると、その翌日、ベッドの上で、そのなんだ、つまらん遊戯にふけっているうちに、急に苦しみだして、あっというまに死んでしまったというんです」 「それで、解剖の結果も古川のその申し立てに、一致しているんですね」 「だいたい、一致している。少なくとも他から手を加えて、死にいたらしめたというような形跡は全然ないんだ。しかし、ねえ、金田一さん、こりゃあふつう一般の、血みどろの殺人事件より、よっぽどいやな事件ですぜ。男色に、死体凌辱……ちっ、なんといういやな世の中になったもんだ」  等々力警部は苦虫をかみつぶしたように、苦りに苦りきっている。  金田一耕助はほほえんで、 「戦後はどうしても、この方面の犯罪が多いんですね。戦争と男色……これはもう切っても切れぬ縁がありますからね。ところで古川小六という男、かわいい稚児さんが急死したので、せめてもの形見にと、このデスマスクを制作したんですね」  それはいかにも古川小六のような男の異常な愛欲の対象となりそうな、細面で優形の、女のような美少年だった。  等々力警部は無言のままうなずいた。 「しかし、警部さん、古川という男も、そんなにかわいい男なら、苦しみだしたとき、なぜすぐに医者に駆けつけるなり、かつぎこむなりしなかったんでしょうね」 「それはそうしようと思ったが、あっというまに、こときれてしまったと言うている。そして、死んでしまうと、なんだか死体を手ばなすのが惜しくなって、それでだれにも内緒にしていたというんだが……そこがまあ、いくらか常人とちがうところなんですな」  金田一耕助はしばらくだまって考えこんでいたが、 「ところで、警部さん、今日の新聞で見ると、死体の身元がわかったようですね」 「ああ、どうやらね。古川のやつ、上野から物色してきた浮浪児だから、どこのだれとも知らんなどとしらをきっていやがったが、このデスマスクを基礎として、つくりあげたモンタージュ写真を見て、昨日、両親が出頭したもんだから……」 「なんでも三鷹か吉祥寺の大地主だそうじゃありませんか」 「ああ、そう、緒方欣五郎とその妻やす子というんだが……」 「それで、緒方夫妻はあの死体を、自分の子どもと認めたんですね」 「いや、死体といってもありゃあもう、相好の識別もつかん腐肉のかたまりみたいなもんだから、どうにもしようがないが、あのデスマスク。あっはっはっは、古川小六が愛着の念禁じがたく、作っておいたデスマスクが、死体の身元を立証する証拠物件になろうとはね。たしかにこのデスマスクは、|倅《せがれ》、辰男にちがいないといっている」 「緒方辰男というんでしたね。あの少年は、……年齢は十八……?」 「満十八と三か月になるといっている。ところで、緒方辰男の捜査願いは、八月十五日にちゃんと出ているんだよ。写真もそえてね。それをこっちがつい気がつかなかったんだ。そういわれて調べてみると、捜査願いにそえて提出した辰男の写真というのが、あのモンタージュ写真にそっくりなんだよ」 「なるほど。そうするとあの死体は、いよいよもって、緒方辰男、満十八歳三か月なりにちがいなしということになりますね」 「そう、|親《おや》|爺《じ》の欣五郎の話によると、ヒロポン中毒にかかっていたことも、肺に病気のあったことも、まちがいなしといっている。この辰男というのが、かなりでたらめなやつでね、家は相当の資産家だのに、学校へもいかずにふらふらしている。しょっちゅう家をとびだしては十日も二十日もかえらぬことがあるという。ヒロポンなどもそのあいだにおぼえたらしく、家でももてあましぎみだったらしいが、しかし、まさか古川と、そんないやらしい関係になっていようとは、ゆめにも知らなかったと、これには両親もおどろいていたっけ」 「そうそう、古川とは親類筋になるんでしたね」 「いや、いまではなんでもないんだがね。緒方と親類筋になるのは、別れた古川の細君で光子というやつなんだ。古川というのがまたでたらめなやつでね、なにしろ、男色という悪癖があるから、いくら細君をもっても長つづきしない。片っぱしから逃げられてしまうんだ。そんなら男専門で、女のほうはよしゃいいのに、やっぱりうちに細君がいないと、なにかにつけて不自由なんだね。ところが、光子というのがまた、とんだアプレでね。今年二十二で、三年まえから古川と|同《どう》|棲《せい》していたというから、十九のとしに、十以上も年齢のちがう男とくっついたわけさ」 「山羊かなんか飼っていたというじゃありませんか」 「そうそう、そういうやつに限って、健全な農村生活みたいなものにあこがれるところがあるんですな。しかし、どうせ長つづきはしやあしないさ。とうとういたたまれなくなって、今年の五月に逃げだしたんだが、その光子がいるころ、辰男というのが、ちょくちょく遊びにきていたんだね。そのあいだに、へんな関係になったらしい」 「古川というのは、家をこわして売り払ったそうじゃありませんか」 「ああ、あれはね、地所を売り払う下準備らしい。相当ひろい家らしかったが、ずいぶん古くなっていたというからね。いまどき、地所を売るにゃ、ボロ家なんかついていないほうがいいんだ。あいつも相当窮迫しているらしいが、六百坪といやあね、ちょっとした財産だよ」  金田一耕助はしばらくだまって考えていたが、やがて、なやましげな目を、デスクの上に落とすと、 「ところで、警部さん、このデスマスクですがねえ」 「はあ、そのデスマスクがどうかしましたか」 「これ、川北先生にお見せにならなかったですか。ほら、八月十三日の晩、古川がかつぎこんだ少年を、診察したというお医者さん……」 「金田一さん」  等々力警部はいぶかしそうに|眉《まゆ》をひそめて、 「それ、どういう意味ですか。なにか、そんな必要があるというんですか」 「いや、あの、ちょっと。……そうそう、十三日の晩、山下巡査も少年の顔を見ているんでしたね。それじゃ、まあ、まちがいはないと思いますけれど……」 「いや、あの、ちょっと待ってください」  金田一耕助のなんだか奥歯にもののはさまったような口のききかたに、急に不安になったのか、等々力警部は|椅《い》|子《す》のなかで身を起こした。いや、身を起こしたばかりではなく、デスクの上から乗りだした。 「山下のいうことはあまり当てにならない。十三日の晩、リヤカーに乗っているのを見たときにゃ、髪をぼさぼさ、額に垂らしていたというし、鼻の下にも|顎《あご》にも、もしゃもしゃと、うすい無精ひげをはやしていたというから。それになんにしろ、懐中電気の光で、ちらと見ただけなんだから。……しかし、金田一さん」  警部はきっと、金田一耕助の顔を見すえて、 「あんたはいったい、なにを考えているんです。そのデスマスクは緒方辰男じゃないというんですか」 「いや、デスマスクは緒方辰男のものでしょう。しかし、このデスマスクがあの腐乱死体からとられたものかどうか。……そこにはなんの確証もないわけですからね」  警部のからだがぴくりとふるえ、|瞳《ひとみ》がかっともえあがった。 「金田一さん」  と、警部はかみつきそうな調子で、 「それじゃ、あんたはあの死体を、緒方辰男じゃないというんですか」  金田一耕助はいよいよなやましげな目つきになって、 「そんなこと、ぼくにもわかりません。いや、だれにだってわかるもんですか。しかし、ねえ、警部さん、相好の識別もつかなくなった腐乱死体、そこへおあつらえむきのデスマスク。……そこになにか、トリックがあるんじゃないかと、疑えば疑える事件ですからねえ。それでぼく、川北医院へいってみたんですよ。お節介のようですけれどね」  警部のからだがまたぴくりとふるえ、椅子がギーッとはげしく鳴った。 「そ、そ、それで……?」  金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「ぼく、いきなり川北先生に、十三日の晩診察した少年は、新聞にのっているデスマスクや、モンタージュ写真の少年にちがいなかったかと切り出したんですよ。そのときの川北先生の|狼《ろう》|狽《ばい》と動揺で、だいたいのことは見当がつきましたがね。先生はまあ、いろいろいってます。さっき、あなたもおっしゃったように、髪が乱れてたとか、無精ひげをはやしていたからとかね。しかし、だいたい反応は、ノーのほうに傾いているようでしたね」 「金田一さん!」  等々力警部はまじろぎもせず、穴のあくほど金田一耕助の顔を見つめていたが、やがて魚の骨でも|咽喉《のど》にひっかかったような声をあげた。 「あなたはそれじゃこの事件に、なにかもっと奥深いものがある。……われわれが知っている死体凌辱という犯罪のほかに、なにかもっと大きな犯罪がかくされている……と、おっしゃるんですか」  金田一耕助はなやましげにもじゃもじゃ頭を横にふりながら、 「いや、いや、いまのところぼくにはなにもわかりません。ただ……」 「ただ……?」 「新聞にあの腐乱死体の身元が発表されると、ぼくのところへとびこんできた女があるんです」 「とびこんできた女あ……? そ、それはいったいどういう女なんですか」 「本橋加代といって、自分で緒方辰男の産みの母だと名乗っているんですがね」  等々力警部はまたぴくりと、大きく眉をつりあげた。 「緒方辰男の生母……? それじゃ、辰男は緒方欣五郎の妻やす子の産んだ子どもじゃないんですか」 「いや、やす子の子どもでないのみならず、欣五郎の子どもでもないそうです。そこにかなり複雑な事情があるらしいので、ぼくもちょっと興味をおぼえたので、それで川北医院へ出向いてみたんですがね」 「それじゃ、辰男の生母の……なんとかいいましたね。名前は?」 「本橋加代です」 「その本橋という女は、あの腐乱死体を辰男じゃないというんですか」 「いや、それはそうじゃないのですが……その点については警部さん、あなたから直接おききになったほうがいいでしょう。じつはきょうここへ来るようにいっておいたんですがね」  金田一耕助がまた悩ましげな目をしょぼつかせたところへ、受付から電話がかかってきた。 「本橋加代というひとが、警部さんに会いたいといってきておりますが。……なんでも金田一先生にすすめられたとかいって……」      四 「やあ、おっ母さん、いらっしゃい」  四十前後の小ぶとりに太った女が、おどおどとドアのすきから顔を出すと、金田一耕助がにこにこと人なつこい微笑をむけて、 「さあ、こちらへ入っていらっしゃい。なにもびくびくすることはないんですよ。あんたのことはいま警部さんに申し上げておきましたからね」 「はあ」  と、加代はそれでもまだ、おどおどとものにおびえたような顔色で、部屋のなかへ入ってくると、警部の前にていねいに頭をさげる。顔色が悪くて、泣いたような目つきをしている。 「警部さん、こちらがいまお話しした本橋加代さん。府中で料理屋のおかみさんをしているんですがね」  そういえば身なりといい、髪かたちといい、いかにも場末の料理屋のおかみさんという格好である。 「さあ、おかみさん。おかけなさい。それから警部さんになにもかもきいていただくんですね。ぼくももういちどきかせてもらいますから、おなじことでもいいからいってください。なんべんもきいたほうが、いっそう腹に入りますからね」 「はあ……」  と、低い声で答えた本橋加代は、いかにも座り心地が悪そうに、椅子のはしに腰をおろすと、もういちど意味もなく警部にむかって頭をさげる。 「あんたが辰男君の産みのおっ母さんかえ。緒方の両親は辰男君にほかに生母があるようなことはいわなかったが、ひとつ、その間の事情をくわしく説明してくれませんか」 「はあ」  と、本橋加代は|袂《たもと》からハンケチをとりだすと、それを|膝《ひざ》の上でまさぐりながら、つぎのような話をはじめた。  いまから二十年以前、加代は府中で料理屋の女中をしていたが、そこへよく遊びにきたのが緒方の先代で重兵衛という人物だった。  重兵衛は吉祥寺と三鷹のあいだに、ひろい畑をもつ農家だったが、ちょうどそのころからあのへん一帯、住宅地としてどんどんひらけていったので、重兵衛は|齢《よわい》五十にして農業をやめ、一躍あの|界《かい》|隈《わい》きっての大地主になった。  こういう人物に金が入り、左うちわで暮らせるとなると、やることはたいていきまっている。酒を飲むか、|博奕《ば く ち》をうつか、|妾《めかけ》ぐるいか……重兵衛はそのとしまですきくわ握った固い手で、加代のおしろいくさい手を握った。そして、それを府中にかこって通っているうちに生まれたのが辰男だというのである。 「|旦《だん》|那《な》には子どもがおありなさらなんだで夫婦養子でした。それがいまの主人の欣五郎さんとおやすさんです。ところがこのふたりにも子どもがなかったので、辰男がひきとられて、欣五郎さん夫婦の子どもということになりましたんです。それですからあの子は、戸籍のうえでは欣五郎さんとおやすさんの子ということになっておりますが、ほんとうはわたしが腹をいためた子どもでございます」  加代は目に涙をためている。  等々力警部は金田一耕助の顔色を読みながら、 「なるほど、それであんたが辰男君の産みの母だという事情はわかったが、それであんたの話というのは……?」 「はあ。あの……これはこちらの先生にも伺いましたのですが、辰男はほんとうに病気で死にましたのでございましょうか。それとももしや……」 「もしや……?」 「はあ、あの……」  と、さすがに加代は口ごもって、 「ひょっとすると殺されたんではございますまいか」  等々力警部のすばやい視線が、稲妻のように金田一耕助にむかって走る。しかし、金田一耕助は、ただ悩ましげな目つきをして、もじゃもじゃ頭をかきまわしているだけである。 「殺されたって? おかみさん、あんた、どうしてそんなふうに考えるんかね。なにかそんな疑わしい事情でもあるのかな」 「はあ、あの……それは辰男はヒロポンをやっておりました。なにせ自堕落な生活をしておりましたもんですから……それに胸の病気もございました。しかし、なんぼなんでも、そう急に死ぬとは思われません。欣五郎さんにきくと、八月十四日に死んだことになるらしいということですが、家出したのが八月十日、それがそんなに急に死ぬというのは……?」 「警部さん、捜査願いではどうなっているんですか。八月十日に家出したということになっていますか」  金田一耕助の質問に、警部はあわてて書類をひっくりかえすと、 「ええ、そう、たしかにそうなっていますな。ところでおっ母さん、辰男が家出したとき、緒方のほうからなにかたよりが……?」 「はあ、あの、十日に出たきりかえってこないと十二日の朝、欣五郎さんがわたしどものほうへやってきたんです。ひょっとするとこっちへ来ちゃいないかって……」 「それじゃ、辰男君はおっ母さんのところへも出入りをしていたんですね」 「はあ、それはもう……なにしろ田舎のことでございますから、かくしたってすぐ知れますんです。いえ、吉祥寺もいまじゃ田舎ではございませんが」  なるほど、ああいう郊外の住宅地では、土地を借りて、そこに家を建てて住む借地人たちは都会人としても地付きの地主たちはそのひとたちとはべつに、いまでも古い武蔵野の田舎の生活から、いくらもへだたりのない思想と習慣のなかに生きているのだろう。 「しかし、ただそれだけのことで殺されたと考えるのはどうかな。それは腹をいためたあんたとしては、悲しみのあまり、ひとを疑ってみたくなるのもむりはないが、人間は老少不定ということもあるからな。それともあんたにはなにか、殺されたんじゃないかという、たしかな証拠でもあるのかな」 「いえ、あの、べつに証拠があるというわけではございませんが、ちょっと、あのいりくんだ事情がございますもんでございますから……」 「いりくんだ事情というと……?」 「はい、あの、それはこういうわけでして……あの、警部さん」  と、加代はちょっとおびえたような目の色をして、警部の顔をうかがうと、 「これはここだけの話にしておいてくださいませ。もしまちがってると恨まれますから」 「ああ、それはいいが、それで……?」 「じつは欣五郎さん夫婦のことでございます。わたしはまえからあの夫婦がなんだかこわくてたまりませんので……それというのが、先代の重兵衛さんとも、とかく折り合いがよろしゅうございませんので、そのせいでもございましょうが、先代が亡くなりますまえに遺言状をつくりまして……」 「ほほう重兵衛さんに遺言状があったんですか」  警部は思わず目をみはった。 「はあ、さようで……」  と、加代は膝の上のハンケチを、引き裂くようにもみながら、 「先代さんは三年まえに亡くなりましたんですが、そのとき作った遺言状というのが、欣五郎さん夫婦に、ごく都合のわるいようにできておりますんです。と、申しますのは、緒方の財産はすっかり辰男に譲られておりまして、ただ、辰男が嫁をもらうまでは、欣五郎さん夫婦が後見して、辰男の自由にさせない。しかし、辰男が嫁をもろうてしまえば、緒方の財産は辰男の自由になる。……と、そういうことになっておりますんです」  警部はぎょっとしたように金田一耕助のほうをふりかえる。金田一耕助は依然としてなやましげな目をして、もじゃもじゃ頭をかきまわしている。 「それで……?」  と、いくらかデスクから乗り出した警部の声はしだいに真剣味をおびてくる。 「はあ、でも、そのまえに辰男が亡くなりましたら……いえ、嫁をもろうてからでも、子どもができるまえに辰男が亡くなりましたら、財産は欣五郎さん夫婦のものになる……とそういうことになっておりますんです」 「それで、あんたは欣五郎夫婦が財産を横領するために、辰男君を殺したんじゃないかというんですな」  警部の声はぴいんと針金を張ったようにきびしかった。 「いえ、あの、そういうわけではございませんが、事情が、そういうふうになっておりますもんですから……」 「おかみさん」  と、金田一耕助が横から口を出して、 「古川小六との関係を警部さんにいってあげなさい」 「ああ、おかみは古川小六を知ってるんだね」  警部はいよいよデスクの上に身を乗りだす。 「いえ、あの、会うたことがございません。でも、話はいろいろきいております。ねえ警部さん、あいつが欣五郎さん夫婦にたのまれて、辰男を殺したんじゃありますまいか。わたし、そんな気がしてなりませんのです。と、申しますのは、あいつも辰男を憎む、いえ、恨んでいるわけがございますんです」 「古川が辰男君を恨んでいる……?」  警部はギラギラ光る|瞳《ひとみ》を、真正面から加代の上にすえて、 「そりゃまたどういうわけだね」 「それと申しますのが、古川の家内の光子……これは緒方の分家のひとり娘でございますから、わたしもよく知っておりますんですが、あの子が古川の小六さんとこから逃げだしたのは、辰男がもとだったんでございます。つまり辰男におもいをかけまして……年齢は光子のほうが四つも上なんですが、それが辰男を誘惑しまして、変な仲になったものですから……」 「辰男と光子が変な仲になっていたあ?」  警部の顔に浮かんだ驚きの色は、いよいよふかくなってくる。 「はあ、あの、なんでもそんな話で……辰男というのがあのとおり、器量のよい子でございますから、いろいろな誘惑が多いのでございます」  警部は|茫《ぼう》|然《ぜん》として金田一耕助の顔を見ている。それでは辰男と恋愛関係にあったのはいったいどちらなのだ。小六なのか。光子なのか。それとも、双方ともにそういう関係を結んでいたのか。警部は背筋のムズムズするような、|嫌《けん》|悪《お》と不快感をおぼえずにはいられなかった。 「それで、その、光子という女はいまどうしているのかね」 「分家へかえっております。ちょっときれいな娘ですが、アプレと申しますんですか、もう手のつけようのない娘で、辰男があんなふうになりましたのも、みんなあの娘のせいでございます。わたしゃもう憎らしくって……」  何かにとりつかれたように、針のようにとがってギラギラ光る加代の目を金田一耕助はだまって見ていたが、やがて思いだしたように、 「警部さん、辰男君の体のことをきいてごらんなさい。なにか肉体上に目印になるような特徴はなかったかと……」  警部はまたドキリとしたような目で、金田一耕助と本橋加代の顔を見くらべていたが、 「おかみさん、なにか辰男君の体に特徴があったのかね」 「はあ、あの、これは金田一先生におっしゃられて思い出したのでございますが、あの子は三年まえに盲腸の手術をしたことがございますんです」  突然、警部がはじかれたように|椅《い》|子《す》のなかで身を起こした。 「も、盲腸の手術だって?」  と、息をはずませて、 「盲腸を切りとったのかね」 「はあ、あの、さようで……わたし、切りとった盲腸をお医者さんに見せてもらいました、付き添いでいっておりましたもんですから」 「病院は……?」 「三鷹の富士見病院で……」 「警部さんどうだったんですか、例の腐乱死体解剖所見では……?」 「ううむ!」  と、うめいたきり、等々力警部の顔色にはにわかに焦燥の色がひろがってくる。  いままで緒方辰男だとばかり信じられていた、あの腐乱死体の解剖にあたってK博士の鑑定書には、盲腸の手術のあることは書いてなかった。もし、あの死体に盲腸の手術の跡がのこっていたら、すなわち盲腸が切りとってあったら、それは当然、鑑定書に記入されていなければならぬはずである。      五 「金田一さん、金田一さん」  と等々力警部は怒りにふるえる声をおさえて、 「これはいったいどういう事件なんです」 「どういう事件とは……?」 「いいえ、わたしはいままでこの事件を、たんなる変質者のゆがんだ情熱的痴行だとばかり思っていました。陰惨は陰惨だけど、単純な性犯罪だと思っていたんです。古川小六もそういう意味で送検されているんです。しかし、あの死体が緒方辰男でないとすると……これはいったい、どういうことになるんです。この事件の背後には、いったい何があるんです。何がかくされているんです」  本橋加代がかえっていったあとである。  三鷹の富士見病院へ電話をかけ、緒方辰男の盲腸の手術のあった事実をたしかめ、さらにK博士の腐乱死体解剖の結果の鑑定書を仔細に改めた等々力警部は、満面に朱をそそぎ、憤然たるまなざしで、|檻《おり》のなかのライオンのように部屋のなかを歩きまわる。歩きまわりながらしゃべっている。しゃべりながら、ひっきりなしに、指をポキポキ鳴らしている。これが興奮したときのこのひとのくせなのである。これほど鮮やかな|欺《ぎ》|瞞《まん》にひっかかったことはない! 「まあ、まあ、警部さん」  金田一耕助は椅子に腰をおろしたまま、やさしい目で、動きまわる等々力警部のあとを追いながら、 「そこへおかけなさいよ、そして、ゆっくりもういちど、この事件を考えなおしてみましょう。とにかく、これであの腐乱死体が緒方辰男でないことだけははっきりしたんですから、ここからふたつの考えかたが出発できると思うんです」 「ふたつの考えかたというと……?」  警部は椅子に腰をおろさなかったが、それでも歩きまわるのはやめた。そして、それから耕助を、にらむような目で見すえた。 「ええ、そう、ふたつの考えかた……」  と、金田一耕助はなやましげな瞳で、ぼんやりデスクの上を見ながら、 「とにかく、あの死体は緒方辰男ではなかった。と、すると、緒方辰男は生きているのか死んでいるのか。……それによってふたつの考えかたができると思うんです」 「ああ、そうだ、金田一さん」  と、警部はかみつきそうな顔色で、 「緒方辰男はどうしたんです。生きているとするとどこにいるんだ。そして、あの死仮面にはどういう意味があるんです」 「さあ、そのことですがね」  と、金田一耕助はいよいよ悩ましげな目の色をして、 「ひょっとすると、緒方辰男は自分というものの存在を、この世から|抹《まっ》|殺《さつ》する必要があったんじゃないか。と、いって自殺するのはいやだから、ていよくこの世から消えてなくなりたい。……と、そこでああいうお芝居が演じられたんじゃあないか。と、そういう考えかたができるわけですね」 「しかし、なぜ? それはどういう理由で?」  警部の調子は詰問するようである。 「さあ、そこまではぼくにもわかりません。おそらくなにか犯罪に関係していて、生きていると都合がわるいというようなことじゃないでしょうかねえ」 「なるほど、それで古川小六が緒方辰男を生きながら、この世から抹殺するために、ひと芝居演じたということになるんですね」  金田一耕助は無言のままうなずいた。  警部はしばらく考えたのち、 「なるほど……ところで第二の場合だと……死んでいる場合だとどうなるんですか」 「さあ、その場合ですね。その場合だと考えかたはもっと単純になりそうですよ。緒方辰男は死んでいる……殺されているとする。そして、どこからか死体となって現われる。たぶん、相好の識別もつかぬ腐乱死体となって。……しかし、その場合、緒方辰男はすでに死亡しているのだから、だれもそれをあの男だと気がつかない。と、なると、犯人は非常に有利になると思いませんか。死体の身元がわからぬ以上、捜査のしようがありませんからね」 「なるほど、そうだ。いや、ちょっと待ってください」  警部はようやく活力をとりもどして、 「こういう場合も考えられる。緒方辰男の死体はこのまま現われない。しかし、だれもそれを疑うものはない。なぜって、緒方辰男の死体はすでに、先月二十七日の夜、古川小六のアトリエから発見されているのだから……」 「そ、そうです。そうです。これは警部さんの説のほうがただしいようだ。緒方辰男は殺された。そして、死体はうまく処分された。しかし、|失《しっ》|踪《そう》があまりながくなると、世間の疑惑をまねくおそれがある。そこで、ああして病死した死体として、われわれのまえに提出したんですね。と、すると、緒方辰男の死体はおそらく現われないでしょうねえ」  金田一耕助はだまって考えこむ。  等々力警部はまたいらいらと、部屋のなかを歩きまわりながら、 「畜生ッ、畜生ッ、どっちの場合にしろ、古川小六はなにか知ってるんだ。あいつは死体|凌辱《りょうじょく》だけの罪でのがれようとしているんだろうが、そうはいかん。もういちどあいつを問いつめて、きっと泥を吐かせてみせる!」  等々力警部はいきまいたが、金田一耕助はかるく首を左右にふって、 「警部さん、古川小六はあのデスマスクを、腐乱死体の顔からとったとはっきりいってるんですか」 「えっ?」 「新聞の記事からだけじゃわかりませんが、あいつは首を左右にして、死体の身元を、いわなかった。上野から連れてきた浮浪児だと、ただそんなようにいってるそうじゃありませんか。警部さんもさっきおっしゃったようだが……デスマスクについてはどういってるんです」  等々力警部の顔にはふいににがい憤りの色が走った。 「そうだ、あいつは……」  と、警部は怒りに声をふるわせて、 「あのデスマスクは腐乱死体の顔からとったとは一言もいわなかった。ただ、あの場の情景や、山下巡査が発見したときの、あいつの奇怪な行動から、われわれはいちずにあのデスマスクを、腐乱死体の顔からとったと思いこんでしまったのだが……」  金田一耕助はほろ苦い微笑を浮かべて、 「そうでしょう。あいつはそう思わせるようにふるまったのでしょう。しかし、自分からは積極的に、あの死体を緒方辰男だともいっていないのだし、あのデスマスクを腐乱死体からとったともいってないでしょう。だから、ここで警部さんが問いつめたところで、あなたがかってにそう解釈しただけのことで、自分はなにも知らない。あのデスマスクはかつての日、辰男をモデルにして作ったのだと、そういいのがれたらどうしますか」 「ふうむ!」  と、等々力警部は唇をへの字なりに結んでうなった。しかし、うなっているだけですむべき場合ではない。 「金田一さん、金田一さん、それではどうすればいいんですか」 「あいつはしばらくそのままにほうっておくんですな。警部さんの話をきくと相当|狡《こう》|猾《かつ》な男のように思われる。ここで騒ぎたててこっちの手のうちを知られちゃまずい。それよりあくまであいつの手にのっているような顔をしていて、べつの方面から捜査の手をすすめていくんですな」 「べつの方面からというと……?」 「警部さん、辰男という男はいままでもたびたび家をあけて、十日も二十日もかえらぬことがあったというんでしょう。そのたびに緒方欣五郎は捜査願いを出しているんですか」  警部はギョッとしたように、金田一耕助のおもてに|瞳《ひとみ》をすえて、 「ああ、いや、そ、そんな話は聞いていないが……」 「あなたがきいていらっしゃらないとすると、欣五郎が捜査願いを出したのは、こんどがはじめてだと思ってよろしいのでしょうね」 「ああ、まあ、そういうことになるが……」 「それだとすると、警部さん、これ、ちと妙だとお思いになりませんか。辰男が失踪したのは八月十日。……いまの本橋加代の話によるとですね。ところが欣五郎は十五日に捜査願いを出しているんでしょう。その間、五日しかたっていない。ところが辰男というやつはしじゅう家をとび出して、十日も二十日もかえらぬことがあったという。それにもかかわらずいままでいちども捜査願いを出したことがなかったのに、こんどにかぎって捜査願いを出したというのはどういうわけでしょう。ひょっとすると、遠からず死体となって現われることを知っていたのじゃありますまいか。その際、義理の親子だから、冷淡だったと思われたくない。……そういう意味のほかになにかもっと深い根拠があったんじゃありますまいか」  等々力警部はううんとうなった。 「よし、それじゃあの夫婦をたたいてみよう!」 「しかし、それもねえ、警部さん」  と、金田一耕助は気のなさそうな声で、 「あの夫婦をたたくといっても、なにしろあのとおり腐乱しておりましたし、辰男はべつにこれといって肉体上、目印になるところもございませんでした。盲腸の手術のことは忘れておりましたので、いちずに辰男と思いこんでおりましたので……と、そういいはられたら、これまたおしまいですからね。捜査願いのことなんか、これはもうどうにでも逃げられるでしょう」  等々力警部はまたうなって、 「金田一さん、金田一さん、あんたのようにいってちゃ……いったい、どうすればいいんですか」 「いや、ぼくにちょっと考えがあるんですがねえ」  金田一耕助は悩ましげな目つきをして、しばらく警部の質問にこたえなかった。相当相手をじらせたのち、やっと口をひらきかけたとき、卓上電話のベルがけたたましく鳴り出した。  警部はいまいましそうに舌打ちをして、面倒くさそうに受話器をとりあげ、ふた言三言応対をしていたが、 「な、な、なんだって!」  と、急に語気に熱がこもってきたかと思うと、受話器にしがみついて、 「男の生首だって……すっかり腐乱して相好の識別もつかないと……場所はどこだ。なに、井の頭公園のそばの玉川上水だって……? そ、それじゃ吉祥寺のすぐそばだね」  そのとたん、金田一耕助はぴょこんと|椅《い》|子《す》からとびあがり、たからかにひと声口笛を吹いた。      六  井の頭公園のそばを流れている玉川上水というのは、幅二間に足らぬ流れだが、流れが急なのと、いったん落ちこむと、つかまるところがないところから、付近でも危険な箇所として知られている。  昭和何年かのことだった。井の頭公園へ遠足に来た小学生のひとりがその上水へ落ちこんだ。それを救おうとして松本という先生がとびこんだが、そのままそこでおぼれて死んだ。そこに松本訓導殉難碑というのが建てられて、井の頭公園の名物のひとつになっている。  九月三日の朝のこと。  いまいった松本訓導の碑から少し下流へよったところにひとつの橋がかかっている。その橋の上でとんぼつりの|竿《さお》をもった子どもが三人遊んでいたが、そのうちひとりがなにげなく上水のなかをのぞくと、橋の|杭《くい》に小さな俵がひっかかっていた。  まだ新しい俵なので、なにが入っているのだろうと、子どもらしい好奇心をおこした。さいわいみんなとんぼつりの竿をもっていたので、てんでに俵をつついているうちに、|藁《わら》のあいだからボロがのぞいた。そして、そのボロのあいだから人間の鼻のようなものがあらわれた。 「変だぜえ。あれ、人間の首じゃない?」 「ばかいってらあ。人間の首が流れてきてたまるもんか」 「だって、ごらんよ。ほら……」 「ふん、ふん変だなあ。じゃあもすこしつついてみようよ」  三人の子どもがとんぼ竿のさきで、俵とボロのすきまをしだいに大きく押しひろげているところへ、大人がひとり通りかかった。 「おじさん、おじさん。ちょっとごらんよ。ほら、あれ、人間の首じゃない?」 「人間の首……?」 「そうだよ。ほら、あの俵のなかにつまっているもの」 「ばかなことをいっちゃいかん。人間の首がそうむやみに……」  と、いいながら、なにげなく橋の上からひょいと上水のなかをのぞいた男は、ひと目俵のすきまを見るなり、ぎょっと大きく呼吸をのんだ。 「坊や、坊や、ちょっとその竿をかしてごらん」  と、子どものひとりから竿をもぎとると、ふるえる腕で俵のすきまをつついたが、突然、 「わっ、こ、これは……!」  と、のけぞるように叫んだが、その声があまりに大きかったので、また二、三人ばらばらと近所を通りかかった大人がよってきた。そして上水のなかをのぞいたとたん、みないっせいに呼吸をのんでたじろいだ。  ボロのなかからのぞいているもの。それはたしかに人間の生首ではないか……こうして井の頭付近一帯は、大騒ぎになったというわけである。  金田一耕助が等々力警部の自動車に同乗して駆けつけてきたときには、玉川上水の両岸かけて、黒山のように野次馬がたかっていた。その野次馬のあいだを縫うて警官たちや新聞記者が、ものものしい顔つきで歩きまわっている。だれもかれも興奮して、殺気立ったような空気があたりにみなぎっている。  生首はむろん、もう水のなかから引きあげられて林のなかにひろげられた|筵《むしろ》の上に投げ出されていた。  それはもうすっかり腐乱しつくして、ふた目とは見られぬ無残な生首だった。むろん相好の識別などつこうはずはなく、辛うじて男であることがわかる程度で、年齢の判別さえつきかねた。  生首の切り口からして、これが素人のしわざであることがうかがわれる。素人があまり鋭利でない刃物でやったらしく、それだけに切り口のむごたらしさがぎりぎり歯ぎしりをしたくなるほど身にせまるのだ。  しかし、ちょっと詳しく調べてみれば、その生首がそれほどながく水につかっていたものでないことはうなずけるのだ。生首をくるんであったボロや、俵の状態からしても、おなじことがいえるのである。  それにだいたい、さっきもいったとおり、玉川上水というのは非常に急な流れである。そこへものを投げこめば、またたくまに下流のほうへ流されてしまうはずなのだ。もっとも、幸か不幸かその俵は橋の杭にひっかかっていたけれど……。 「ゆうべ投げこんだんでしょうねえ」  金田一耕助はゾーッとしたように、、生首からおもてをそむけてつぶやいた。 「だいたいそういうところでしょうねえ、この俵やボロの状態から見てもね。ときに、先生、死後どのくらい……」  生首をとりまいていた係官のなかから、検視をおわった武蔵野署の警察医が、顔をしかめて立ちあがった。 「だいたい、三週間前後というところでしょうねえ。それ以上、詳しいことはここではわかりかねますがね」 「死後三週間前後というと、きょうは九月三日だから、殺害されたのは八月十三日前後ということになりますね」 「まあ、だいたいその見当と思っていてまちがいないでしょう」  等々力警部は思わず金田一耕助と顔見合わせた。金田一耕助は暗い目をして音もなく流れる玉川上水をのぞいてる。 「それで、切断されたのはいつ……?」 「死亡してからまもなくのことだろうと思いますね。ところで、警部さん、ここにちょっと妙なことがあるんですがな」 「妙なことって?」 「この生首はおそらくゆうべ、水中に投じられたのだろうと思うが、それまで、どこかの土中に埋められていたんではないかと考えられるんだね。耳の穴、鼻孔、口中などに土がたまっているんでね」 「土中に埋められていたあ?」  等々力警部はまた金田一耕助のほうへ目をやった。金田一耕助はなにやらうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしている。  いったい、これはどういうことになるのだ。死亡して……おそらく殺されたのだろう。それからまもなく切断され、土中に埋められて、いままでだれにも気づかれなかったものを、だれがいまごろ掘りだして、改めて水中に投じたのだろう。それではまるで、いままで隠密のうちにかくされていた犯罪を、わざと明るみに出すようなものではないか。  それについて金田一耕助がなにかいおうとしたときである。さっきから用事ありげに警部のまわりをうろうろしていた警官が、思いきったように一礼すると、ふた言三言、何やら警部にささやいた。  警部はちょっと|眉《まゆ》|根《ね》をあげて、 「ほほうそれは耳よりな話ではないか。そして、その婦人というのは……?」 「向こうに待たせてあるんですが、ここへ呼びましょうか」 「ふむ、すぐに呼んでくれたまえ」 「はい」  つかつかと向こうへいく警官のうしろ姿を見送って、 「警部さん、どうかしたんですか」  と、金田一耕助がたずねた。 「いやね、このボロ……」  と、警部は生首をくるんであったボロを指さして、 「このボロに見おぼえがあるという女がいるんだそうな」 「ほほうそれは……?」  金田一耕助が唇をすぼめているところへ、警官が野次馬のなかから二十前後の女を連れてきた。女は相当……、いや、相当以上の美人で、しかも、極彩色に化粧をしており、|爪《つめ》まで赤く染めているが、それでいて着ているものを見ると、かなりくたびれたポプリンのワンピース。しかも、素足に下駄ばきという格好が、首から上と下では全然べつべつのちがった感じで、ひどく不調和な印象だった。 「ああ、あんたですか。このボロに見おぼえがあるというのは……?」 「はあ、あの、さようでございます」  女はなんの恐怖もしめさず、まるで子どもが不思議なものでも見るような、あどけない目つきをしてまじまじと生首を見ていたが、警部から質問をうけると、あわてて視線をそのほうへむけて、にっこり笑ってしなをつくった。ちょっとえくぼのかわいい女である。 「見おぼえがあるって、どこで見たんですか」 「三、四日まえ、おじさんのところで車に一台ボロを買いましたの。御存じかどうですか、このへんの百姓はボロを|堆《たい》|肥《ひ》につかいますの。ボロに下肥をかけて腐らせて……それは非衛生的なんですのよ。だからあたし、百姓なんて大きらい」  女は不思議そうな目をして、金田一耕助のもじゃもじゃ頭を見ていたが、なぜかボーッと|頬《ほお》をあからめると、 「そのとき、あたしもボロをおろすお手伝いをしたんですけれど……あんなことほんとうにいやだわ。せっかくの手、台なしになってしまうんですものね」  女はきれいに手入れのいきとどいた指を、ほこらしげに目のまえへかざしてみせる。形のよい、よくそる指である。  等々力警部はあきれたような目つきをして、女の顔を見ていたが、 「それで、そのなかにこのボロがあったというのかね」 「ええ、そうなんですの。それですから、あたしもびっくりしてしまって……」  女は思いだしたように身ぶるいをすると、また金田一耕助のほうへながし目をくれた。そして、なぜかまた頬をあかくした。 「それで、あんたのおじさんというのは……?」 「はあ、緒方欣五郎というんですのよ」  妙にくねくねしなをつくる女のようすを見ているうちに、突然、等々力警部の血管が、大きくふくれあがった。|瞳《ひとみ》が自分でも説明できぬ怒りと憎しみにもえあがった。なにかいおうとして、|咽喉《のど》をぐりぐりさせていたが、そのとき、金田一耕助が|飄々《ひょうひょう》としてふたりのあいだに割って入った。 「ああ、そう、それじゃあんたは光子さんだね」 「あら、まあ、どうしてあたしの名前を御存じですの」  光子は両手のたなごころを合わせて、くねくね体をくねらせながら、金田一耕助の顔をながし目に見て、またにっこり笑うと、頬をあかくする。金田一耕助はお|尻《しり》がむずむずする感じであった。 「そりゃ、光子さん、あんたのようなきれいなひとだもんな。いろいろ評判はきいてますよ」 「あら、失礼しちゃうわね」 「ところで、光子さん、あんた、どうしてここへ来たの?」 「あら、だって人食い川から生首があがったって話聞いたんですもの。大急ぎで駆けつけてきたのよ。おもしろいんですものね」 「おもしろい……?」 「ええ、おもしろいわ。だってこんなこと、めったに見られることじゃありませんものね。あたし、おまわりさんが俵を解くところから見てたんですのよ。そしたら、あのボロが出てきて……あたし、それでおまわりさんに、そのボロ知ってると知らせてあげたのよ」 「あんた、この生首をだれだと思う?」  光子はまた、不思議なものでも見るように、あどけない目つきをして、まじまじと生首を見つめながら、 「あらそんなこと、あたしにはわからないわ。辰っちゃんなら、もうせんに、|死《し》|骸《がい》になって見つかったんですものね」  金田一耕助はちらと警部に目くばせをして、 「光っちゃんはそれじゃ、これを辰っちゃんじゃないかと思ったの?」 「あら、光っちゃんだなんて、うっふっふっふ」  と光子はまた金田一耕助がお尻をむずむずさせるほど、しなしなと体をくねらせて、 「そんなこと、わからないっていってるじゃないの。あたし、探偵さんじゃないんだもの。でも、なんだか辰っちゃんに似てるような気もするの。変ねえ。辰っちゃんなら、もうせんに死んで、お葬式もすんだのに……」  金田一耕助はまた警部に目くばせをして、 「ときに、光っちゃんは辰っちゃんといい仲だったんだってね」 「あら、いやあよ、こんなところでそんなこといっちゃ……」  光子は上目づかいに金田一耕助の顔をにらむと、 「うっふっふ」  と、ふくみ笑いをしてまた体をくねらせる。 「だけど、光っちゃん、かわいかったんだろう。辰っちゃんが……」 「ええ、はじめのうちはね。だけどすぐいやになったわ。わたし、あんなひときらい!」 「どうして……?」 「だって、小六さんと変なことするんだもの。けだものよ、あのひとったら!」 「あのひとってだれ? 辰っちゃんのこと?」 「ううん、小六さんのことよ。あのひとったらあたしから辰っちゃんをとりあげてしまったのよ。だからあたしあの家をとびだしたの。男どうしであんなことするなんて、けだものよ。畜生よ、ねえ……?」  金田一耕助はまたお尻がムズムズするような感じをおさえることができなかった。  等々力警部はいまいましそうに光子の横顔をにらんでいたが、 「それはとにかく金田一さん、ここはこのひとたちにまかせておいて、とにかく緒方欣五郎のところへいってみようじゃありませんか」 「あら、おじさんのところへいらしゃるの。それじゃあたしが御案内するわ」  子どものようにはしゃいでいる光子のようすに、等々力警部の血管がまたぴくぴくと|痙《けい》|攣《れん》した。      七  緒方欣五郎の家は、ちょうど吉祥寺と三鷹のあいだにあったが、金田一耕助は一歩その構えのなかに足を踏みいれたせつな、なんともいえぬ妙な印象にうたれた。  欣五郎の家のすぐ隣まで、まえもうしろも右も左も、都会がおしよせてきていた。それはおそらく、欣五郎にとっては借地人なのだろうが、いずれも数奇をこらした近代的な高級住宅を建てならべ、屋根にはテレビのアンテナが張ってあり、ガレージのある家も少なくなく、おそらくどの家にもピアノがそなえつけてあるのだろう。  それにもかかわらず、これらの高級文化住宅にとりかこまれた地主の欣五郎の家だけは、武蔵野特有のかなりひろい雑木林と竹やぶを背におうた、むかしながらの|藁《わら》ぶきの平家なのである。  つまり、そこでは都会と田舎が隣どうしに住んでいるのだ。いや、都会のなかにポツンと一軒、田舎がとりのこされているといったほうがただしいかもしれぬ。だれでも、アスファルトに舗装された道をとおって、大谷石の門構えや、自家用車のガレージやテレビのアンテナを見たあとで古めかしい農家の構えへ入っていけば、なんともいえぬほど変てこで、ちぐはぐな感じをうけるにちがいないが、あとから思えば、緒方欣五郎のその住居こそ、こんどの事件を象徴しているようなものであった。  巧知と無知、野蛮と|狡《こう》|知《ち》、無造作と技巧……非常にうまく考えたつもりの、たいへんばからしい愚かな犯罪……それがこんどの事件の特徴だった。 「おじさん、おじさん、警察のひとがおおぜい来てよ」  まるで珍客でも案内してきたような光子の声に、鶏小屋のまえで鶏に|餌《えさ》をやっていた男が、ぎょっとこちらをふりかえったが、その瞬間、その男の面上を、さっと不安とおびえの色がかすめたのを、等々力警部も金田一耕助も見のがさなかった。  男は一瞬はっと逃げ腰になったが、さすがに逃げるのは思いとどまったらしく、そのかわり、おどおどと、瞳をふるわせながら、 「おやす、おやす!」  と、泣き声にちかい声でわめいた。 「警察の|旦《だん》|那《な》がいらしたよ」  これが吉祥寺から三鷹へかけての大地主といわれる緒方欣五郎だった。年齢は五十前後だろうが、見たところ、典型的な武蔵野の農民だった。みじかく刈った頭はすっかり白くなり、それが頭の地膚まで日にやけた顔や手脚とたいへん対照的である。  どこにもこのへんきっての大地主といわれる|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》はなく、両の|頬《ほお》にきざまれたふかいたて|皺《じわ》といい、ごつごつと節くれだった指といい、ながい歳月の苦労を物語っていないものはない。あるいはこれが夫婦養子としての、ながい忍苦の生活を物語っているのかもしれなかった。  欣五郎のわめき声に、裏のほうから前垂れで、ぬれた手をふきながら駆けだしてきたのは、|狐《きつね》のような感じのする、やせて、青黒い顔をした女である。これが欣五郎の家内のやす子だが、これまたぜったいに大地主夫人には見えない女で、せいぜい下働きの女中くらいである。 「おや、旦那」  と、おやすは光子にちらりと|一《いち》|瞥《べつ》をくれると、ちょっとベソをかくような顔をして、 「このあいだはいろいろと……なにかまた辰男のことで……?」 「いやあ、ちょっとね」  と、警部はじろじろふたりの顔を見くらべながら、 「ときにおかみさん、おたくの|堆《たい》|肥《ひ》置場はどこにあるの。ほら、ボロで堆肥をつくるんだろう」 「へえ、堆肥小屋ならあれですが……」  欣五郎が不思議そうに指さすと、ついてきた刑事がふたり、警部の指図も待たずにそのほうへとんでいった。そしてまもなくひとつかみのボロをつかんでひきかえしてきたが、それを見ると等々力警部は、 「ううむ!」  と、唇をへの字なりに結んで目を光らせた。  それはあきらかにあの生首をつつんであったボロと、おなじ種類のものである。光子はそれを見るとにこにこしながら、 「ほら、あたしのいったとおりでしょう。金田一さん、うっふっふ」  と、金田一耕助のほうへながし目をくれ、それからボーッと頬を染めた。妙な女だ。 「旦那さん、そのボロがどうかいたしましたんでしょうか」  おやすは不安そうに前垂れをもみくちゃにしながら、おどおど|瞳《ひとみ》をふるわせている。 「おかみさん、あんたきょう玉川上水に生首が浮かんだってこときいてないかね」 「そうそう、そんなうわさでございますが……」 「それがね、これとおなじボロでくるんであったんだ」  欣五郎とおやすはびっくりしたように目をみはり、それから顔を見合わせたが、そこにはかくべつ危険を感じたような色もなく、どこかきょとんとしているのを、金田一耕助は興味ぶかげに見まもっていた。 「旦那、生首がどうかいたしましたんで?」  |眉《まゆ》をひそめていぶかしそうにたずねる欣五郎を、等々力警部は憤怒にみちた目でにらみすえると、 「おい、きみ、緒方君、しらばくれるのもいいかげんにしたまえ。ひょっとすると、その生首がきみたちのせがれの辰男の首じゃないかというんだ。きみたち、古川小六のアトリエから発見された死体が、辰男でないことはよく知ってたんだろう!」  かみつきそうな警部のことばに、欣五郎とおやすははっと顔を見合わせると、ふたりともみるみるうちに唇の色までまっさおになり、がくんと首をおとすと、わなわな体をふるわせた。 「ああ、やっぱり知ってたんだな」  一見|朴《ぼく》|訥《とつ》なこの夫婦に、まんまといままでだまされていたのかと思うと、等々力警部も腹が立つらしく、にくにくしげな目でふたりをにらみすえると、 「ところで、緒方君、きょう人食い川からあがった生首だが、それがこれとおなじボロにくるんであったんだ。それについてなにか言い訳があるかね」 「これとおなじボロでくるんであったあ?」  欣五郎はきょとんとした目で、刑事のつかんでいるボロを見ていたが、急にはっと気がついたように、 「旦那、それじゃその生首を、辰男の首だとおっしゃるんで」 「そうだ。そうじゃないかとにらんでいるんだ。それについて、きみ、なにかいうことがあるか」  欣五郎はあきれかえったように、警部の顔をみつめていたが、急に|激《げっ》|昂《こう》の色を浮かべて、 「そ、それじゃ辰男は殺されたとおっしゃるんで? そ、そんなばかな」 「そ、そんなばかなとは……?」 「おまえさん、おまえさん、もうこうなったらなにもかもいっておしまいなさい。旦那さん」  おやすは狐のような目を警部にむけて、 「辰男が殺されたなんて、そんなばかげたことはございません。現に今日も辰男からハガキがまいりましたんです」 「辰男君からハガキがあ……?」 「そうです、そうです。おまえさん、あのハガキを旦那さんに見てもらってもいいでしょう。もうこうなったらなにもかもきいていただきましょう。ねえ、おまえさん、いいでしょう」 「うん、しかたがねえ。おやす、あのハガキをもってこい」  欣五郎はどしんと縁側に腰をおとすと、両手で頭をかかえこむ。おやすは、暗い土間へかけこむと、すぐ一枚のハガキをもってきたが、そのハガキというのが、たいへん奇妙なものであった。 [#ここから1字下げ] お父さん、お母さん、私はやっと府中のおばさんのお世話で落ち着くところを見つけました。ここで髪がながくなるまでかくれています。心配はいりません。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]たつ子  等々力警部と金田一耕助は、思わずぎょっと顔見合わせた。 「緒方さん、こ、これはいったいどういうわけです。髪がながくなるまで待っているだの、またこのたつ子という女名前は……?」  それにたいするおやすの答えこそ、等々力警部や金田一耕助、さらにつめかけていたおおぜいの係官たちに、晴天の|霹《へき》|靂《れき》ともいうべきショックを投げつけたのである。 「へえ、あの、それが……あの子は女になりましたんです」 「お、女になったあ!」  等々力警部のさけび声は世にも珍妙なものだった。金田一耕助もおもわず大きく目をみはる。ほかの係官たちも狐につままれたように、ポカンとした顔で立っていた。  縁側に腰をおとしていた欣五郎は、放心したような顔をむっくりあげると、 「旦那、いまおやすのいったことはほんとうなんです。あの子はほんとうに女になったんです。いままで男だとばかり思っていたのが、この春ごろからだんだん変になってきて、とうとう本物の女になったんです。それで、当人、とてもきまりわるがりまして、死んでしまうというんです。それじゃ、先代さんにすまんからと、いろいろなだめたり、すかしたりしたんですが、あの子はなかなかきかないで、とうとう小六さんのところへ相談にいったんです。へえ、小六さんとは女になってから関係ができたらしいんです」  欣五郎はちょっと気をかねるように光子を見たが、その目つきにはおだやがならぬ光がただよっている。光子はあいかわらずぼけたような顔をして、体をくねくねくねらせては、ときおり金田一耕助のほうへながし目をくれ、それからボーッとあかくなる。  金田一耕助はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》として、陽にやけた地膚のすけてみえる欣五郎の白髪頭を見ていたが、急にがりがり、ばりばり、めったやたらともじゃもじゃ頭をかきまわしはじめた。 「そ、それで小六さんが、あ、あんなへんてこなことを思いついたんですか。他人を身がわりにするという……」 「へえ、そうなんです。小六さんのいうのに、ほんとに死ぬことはないが、世間からは死んだものになってしまえ。そして、だれも知らぬ土地へいって、女になって暮らせばいい。自分もいっしょにいって、夫婦になって暮らしてやる。……と、そういったんだそうで。あの子は小六さんにほれておりましたもんですから……」 「ほんとにわたしども、警察の旦那をだますなんて、恐ろしゅうございましたが、あの子が死んでしまうというもんですから……」  おやすも前垂れを目にあてたが、しかし、この夫婦の嘆きには、もうひとつひとに訴える迫力にかけている。それは血をわかたぬ親子として、当然の水くささかもしれないが……。  等々力警部は茫然として|小《こ》|鬢《びん》をかいている。金田一耕助も茫然としてもじゃもじゃ頭をかきまわしている。  それはたしかに|滑《こっ》|稽《けい》な事件だった。いや、じっさい、はじめは滑稽な事件だったのだ。ところがそこへ、ある人物の|奸《かん》|知《ち》がはたらいていたので、この滑稽な事件が、|俄《が》|然《ぜん》、なまなましい、世にも|凄《せい》|惨《さん》な事件に|変《へん》|貌《ぼう》していったのである。 「ときに、このハガキにある府中のおばさんというのは本橋加代さんのことだろうねえ」  等々力警部はもういちど、ハガキを読みなおしながらたずねた。欣五郎はちょっとびっくりしたように、警部の顔を見なおしたが、 「へえ、さようで。あのひとが辰男の産みのおふくろなんで」 「それじゃ、加代さんも知ってるんだね。辰男君が女になったということを」 「さあ、わたしは知るまいと思ってたんですが、このハガキで見ると、辰男のほうから訪ねていったとみえます。はじめは東京の友達のところへかくれているといってたんでございますが、急に気がかわったとみえますんです」  金田一耕助はまたしだいに高まってくる不安に、等々力警部と顔を見合わせた。 「で、このハガキ、たしかに辰男君の筆跡なんでしょうねえ」  金田一耕助がたずねた。 「さあ、少しちがうようですが、でも、こんなハガキをよこすのは、あの子よりほかにごぜえませんから」  金田一耕助はもうさきほどの、とまどいしたような滑稽感はわすれていた。その反対に、なんともいえぬドスぐろい思いが、いかの墨のように腹の底からふきあげてくるのを、おさえることができなかった。 「ああ、そうだ。これは光っちゃんにきけばいちばんよくわかる」  金田一耕助は思いだしたように、そこに立っている光子をふりかえると、 「光っちゃん、いまおききのとおりだけど、あんたどう思う。辰っちゃんが女になったってこと」 「そんなことうそよ」  光子は言下にこたえると、また金田一耕助にながし目をくれ、それからしなしな体をくねらせた。 「うそだとお?」  欣五郎の目にさっと凶暴な色がほとばしる。 「光っちゃん!」  おやすもにくにくしげに目をとがらせたが、しかし光子は平然として、あいかわらず体をしなしなさせながら、 「そうよ。うそにきまってるわ。男が女になるなんておかあしくって。辰っちゃんは立派な男だったのよ。あたしがいちばんよく知ってるわ」  そこで光子はちょっと金田一耕助を尻目に見て、ボーッと|頬《ほお》を染めながら、 「それに小六さんだって、辰っちゃんが男だからかわいがってたんじゃないの。あのひと、女はだめなのよ。女でよければあたしで満足してるはずでしょ。それだのに、小六さんたらちっともあたしにかまってくれないから、あたし、つい、辰っちゃんとああなったのよ。そうしたら小六さんがまた辰っちゃんを横どりしたのよ。あんな立派な男の子が女になるなんて、そんなことうそにきまってるわ」 「み、光子!」  欣五郎が怒りに全身をふるわせて、縁先にあった|薪《まき》わりをふりかぶるのを、刑事がふたり、左右からおどりかかってとりおさえていた。      八  世間をさわがせた古川小六の昭和『|青《あお》|頭《ず》|巾《きん》』事件は、ここにいたって、さらに一種異様な|妖《よう》|気《き》をおびてきた。  欣五郎夫婦がいうように、辰男はほんとに男から女へと性の転換をとげたのであろうか。そして、世間体を恥じて身をかくしたのであろうか。  性の転換ということはありえないことではない。ことに戦後はしばしばそういう例が報告されている。日本にもあったし、外国にもあったということを外電はつたえている。  しかし、辰男がそうだったという証拠は、欣五郎夫婦のことば以外になにもなかった。  本橋加代はその点について、等々力警部からたずねられると、はじめのうち茫然として目をみはっていたが、やがて烈火のごとく怒っていきりたった。 「うそです! うそです! そんなことうそです! 辰男は立派な男でした。欣五郎さん夫婦はそんなことをいって辰男を殺してしまったんです。小六さんのところで見つかった死体が辰男でないとしたら、あの生首がきっと辰男にちがいありません。警部さん、金田一先生、辰男の敵を討ってください」  本橋加代はそういって、悲しさとくやしさに泣き伏した。  これを要するに、あのハガキが辰男の筆跡であるにしろないにしろ、辰男が|失《しっ》|踪《そう》後、加代のところへ立ちよったという事実はなかった。  古川小六もまた辰男の性の転換については|頑強《がんきょう》に否定していた。辰男と男色関係があったことは認めたが、その後、欣五郎夫婦の干渉がうるさいので手を切って、そのかわりに上野から辰男にかわる|美《び》|貌《ぼう》の浮浪児をひろってきたのだといっている。  そして、あのデスマスクは辰男恋しさに作ったものだが、浮浪児が死亡したのち、それを死体の顔にかぶせて、辰男として|愛《あい》|撫《ぶ》していたので、その後、辰男がどうなったか、自分の関知するところではないとうそぶいていた。  こうして、昭和版『青頭巾』事件は、世にも複雑怪奇なにおいが、しだいに濃厚になってきたのだが、そうしているうちにも、ぞくぞくとして切断された手や脚が、吉祥寺から三鷹、さては井の頭公園を中心として発見され、付近に住むひとびとを恐怖のどん底にたたきこんだ。そして、生首が発見されてから三日めのこと、緒方欣五郎宅の竹やぶのなかから、切断された左脚を野犬がくわえ出すにいたって、欣五郎夫婦の犯罪は決定的とみなされるにいたった。  ただ、ここに困ったことには、発見されたのは生首のほかに両手と両脚と、体の大部分はそろったのだが、それらの部分だけでは、それを辰男の死体の一部分だと、断定するわけにはいかなかった。なにしろ腐乱がはげしく、しかも、辰男の肉体にはこれという特徴がなかったのだから。  だから、問題は胴なのである。胴が発見されれば、性の転換はともかくとして、盲腸の手術の|痕《こん》|跡《せき》の有無から、辰男であるか否かがわかるはずなのだが、その胴がいつまで待っても発見されなかった。  こうして、等々力警部の焦燥のうちに、一週間を過ぎ、十日とたったが、それでもなお肝心の胴が発見されず、そのために、緒方欣五郎夫妻の逮捕も見送られていたのだが、九月十五日にいたって、急転直下事件解決の|曙《しょ》|光《こう》をあおぐにいたったのである。  そこはH山付近にある古川小六のアトリエだった。  九月十五日の昼さがり、夏草におおわれたアトリエの敷地のなかに、おおぜいのひとびとが立ちはたらいていた。取りこわしてもちさった母屋のあとを、警部が人夫たちを指揮して掘りおこしているのである。 「じっさい、あんなうまいかくし場所はありませんからね」  夏の日ざしをよけて、金田一耕助がいま等々力警部とともに休息しているのは、かつての夜、山下巡査が古川小六の、世にもあさましい所業を目撃した、あのまがまがしいアトリエのなかである。金田一耕助はそのアトリエの窓から、人夫たちの作業を見まもりながら、暗い目をしてつぶやいた。 「まったく、家をこわしたあとほど乱雑なものはありません。あそこにはもう、役に立つ材木はありませんが、こわれた壁土や、こまいの破れたのや、半かけの|瓦《かわら》などが、山のように盛りあがっています。それを取りのけておいて、その下の土を掘り、ものをかくしたのちに、また壁や、こまいや瓦を積んでおけば、だれにも怪しまれることはありません。そこは元来、乱雑なのがほんとうなのだから、乱雑ならば乱雑であるほど、ひとに疑われることが少ないのです」 「それじゃ、金田一さん、あんたの考えでは、やっぱりあれはここにあるというんですね」  等々力警部も熱心に、窓から作業を監視している。そばにはかつて古川小六のアトリエから発見された腐乱死体を解剖したK博士も、緊張した顔色で待機していた。  残暑のきびしい日ざしのなかに、人夫たちの裸身が汗にまみれ、草いきれがむせっかえるようである。おりおりパッとかわききった壁土が、こまかいほこりとなって舞いあがった。  アトリエの構えの外には、いっぱい野次馬がたかって、好奇心にみちた目を光らせている。 「そうですとも」  金田一耕助は確信にみちた顔色で、 「最初生首が発見されてから、きょうで十日以上にもなるのに、両手、両脚は発見されながら、肝心の胴はなぜ発見されないのか。それはつまり胴だけは、共犯者の手にわたされなかったからです」 「その共犯者を光子だというんですね」 「そう」  金田一耕助は暗い目をしてうなずくと、 「あの女以外には考えられませんね。警部さんもお気づきでしょうが、あいつ、多分に正常じゃないところがありますから、こういうことも案外平気でやれるんですね」 「しかし、金田一さん」  と、等々力警部はまだいくらか不安そうに、 「これはいったいどういう事件なんです。古川小六はなんだって、緒方辰男を殺したんです。欣五郎夫婦が殺したというなら話はわかるが……」 「さあ、そこなんですよ。警部さん、いまおっしゃった欣五郎夫婦が殺したというなら話はわかるが……と、その一言のなかにこそ、この事件の真相が秘められているんです。緒方辰男を殺すことだけが目的だったら、このあいだ警部さんもおっしゃったとおり、死体はあらわれないほうがほんとうなんですよ。なぜって、緒方辰男はすでに死体となって発見されているんですからね。ところがそれがあらわれた。しかも欣五郎かたのボロにくるまって……また、欣五郎かたの竹やぶのなかから。……ここにこの事件のいちばん重大な意味があるんです。すなわち、古川小六の目的は、緒方辰男を殺すと同時に、その罪を欣五郎夫妻にきせることにあったんですよ」 「しかし、それはどうして……?」 「どうしてって、警部さん、わかってるじゃありませんか。辰男が死ねば財産は欣五郎夫妻のものになるんですよ。しかし、その欣五郎夫妻が辰男殺しの罪に問われてごらんなさい。緒方本家の財産は、分家のひとり娘光子のふところにころげこんでくる。そして、わかれてるとはいえ古川小六は、いまだに光子の亭主なんですぜ」  とつぜん、恐怖にも似たおどろきの色が、等々力警部の面上をさっとかすめた。 「そ、それじゃ、金田一さん、こ、これは財産目当ての犯罪だったんですか。私はまた、変質者のゆがんだ情熱的犯罪だとばかり思いこんでいたのだが……」 「そう、そう思わせるように古川小六は行動したんですね」  金田一耕助は暗いためいきをついて、 「しかし、これは情熱的、突発的な犯罪ではなかったんです。この事件の犯人は、かれはかれなりに非常に綿密な計画をたてたんですね。おそらくそれは、光子がまだここにいるあいだのことでしょう。ときどき遊びにくる辰男が、男からしだいに女に転換していくのを見まもっているうちに、こういうとっぴな、ズバ抜けた犯罪を思いついたんでしょうね」 「そうすると、金田一さんは、辰男はやっぱり性の転換をとげているとお考えですか」  そばからK先生がおだやかにことばをはさんだ。 「ぼくはそう信じますね。欣五郎夫婦のような人間が、こんなとっぴなうそを思いつくはずがありませんし、それにいままで胴が出現しないことが、それを裏付けていると思うんですよ」 「と、いうのはどういう意味?」 「先生、緒方夫妻を罪におとすのは、発見されたバラバラ死体が、辰男であることが確認されねばなりませんね。それを確認させるためには、胴を提出することが第一です。盲腸手術の跡という、たしかな証拠があるのですからね。それにもかかわらず、いまもって胴があらわれないというのは、その胴を見れば、辰男の性の転換ということが、一目|瞭然《りょうぜん》わかるからではないでしょうか」  K先生はだまってうなずき、等々力警部はううむとうなった。 「つまり犯人にとっては痛しかゆしというところだったんでしょうがね。胴は出したいが出せない。そこであくまで胴だけはかくしておくことにしたんでしょう」  金田一耕助は窓の外の作業を見まもりながら、 「古川小六の考えでは、自分は死体凌辱の件で送検される。つまり未決へ入るわけです。そのあとでほんものの辰男の死体がバラバラ死体となって現われる。そうすれば当然自分は疑惑の外へおかれ、罪は緒方夫妻にふりかかると……そういう計算だったんですね。まさか、光子のような若い娘がバラバラ死体をそこらじゅうへまきちらすとは、だれも思わないでしょうからねえ」  警部はまたううむとうなって、 「だけど、あのにせの辰男は……?」 「ああ、あれははじめっから、古川小六がいってるとおり、上野かどこからか連れてきた|男娼《だんしょう》なんでしょう。ちかぢか死にそうなやつを物色してきたんですね。おや、警部さん、目的のものが掘りだされたらしいですよ」  なるほど母屋のあとの発掘作業にあたっている連中のなかから、一種異様なさわぎの起こるのを見て、等々力警部と金田一耕助、それからK博士の三人は、いそいでアトリエからとびだしていった。 「警部さん、警部さん、ごらんなさい。死体のバラバラ作業はここで行なわれたんですぜ。ほら、このおびただしい血……」  刑事のひとりが気がくるったような声で叫んだ。いままでいそがしく立ちはたらいていた人夫たちもいっせいに、凍りついたようにしいんと穴のなかを見つめている。  見ればなるほど、穴のなかの土には、黒い血が、墨を流したようにこびりついていた。そして、その穴の底に、これまた血にまみれたズックの包みがころがっており、そのズックの破れめからのぞいているのは、ゾッとするような腐肉の塊ではないか。 「だれか、その、ズックをひらいてみろ!」  等々力警部が窒息するような声で叫んだ。  ズックのなかから出てきたのは、まぎれもなく人間の胴だった。金田一耕助はその|凄《せい》|惨《さん》なすがたからあわてて目をそらすと、 「先生、その胴の下腹部をしらべてください。この春まで男だったが、のちに女に転換した人物……それだけ腐乱していても、人間にとっていちばんたいせつな機能なのだから、|痕《こん》|跡《せき》はのこっていると思います」  K博士は綿密に腐乱した胴をしらべていたが、しばらくすると、厳粛な顔をして立ちあがった。 「金田一さん、あんたのおっしゃるとおりですよ」  金田一耕助は無言のまま頭をさげると、警部にむかってしずかにいった。 「警部さん、これでぼくの仕事はおわりました。あとはあなたの領分ですよ」    花園の悪魔      一  そこは東京都の中心をめぐって走る環状線のとある駅から、郊外電車で五十分ほどの距離にある、Sという温泉場である。  温泉場といっても、箱根や熱海のように、豊富に湯が出るわけではなく、また、天下に名を知られているというほどでもないが、それにもかかわらずここにある二軒の旅館が、いつも繁盛しているというのは、東京に近くて、しごく短時間で、お手軽にやってこられるからである。  と、いうことはつまりアベックむきなのだ。都内の温泉マークの旅館では殺風景でもあり、いささか気がさすというような連中は、よくここへやってくる。電車で来ても五十分だし、自動車をとばすともっと便利である。  夕方ごろから自動車をとばしてやってきて、そこで十分用事をすませ、ゆっくり入浴したとしても、十時ごろにはなに食わぬ顔をして、東京のなかへ帰っておれる、というところに魅力がある。  だから、ここにある二軒の旅館の建築は、はじめからアベックむきに設計されていて母屋のほかに気のきいた離れが、庭のあちこちに散在している。  それらの離れはいずれも座敷や寝室のほかに、玄関と浴室、御不浄がついていて、一軒の独立家屋になっており、周囲に風雅な竹をあしらい、|笹《ささ》の葉ずれの音によって、内部のもののけはいが、外へもれることのないようにくふうされているから、ここへ来たアベックたちは、だれはばかるところなく、思うままにふるまうことができるし、また、廊下や浴室で、ほかの客と顔を合わせるばつの悪さも、防げるようになっている。  むろん、アベックばかりでなく、なかには子どもをつれた家族づれの客もある。そういう客は母屋のほうに泊まるのだが、この土地に、アベックのほかに、子どもづれの客もかなりにあるのは、そこが東京近郊での、花造りの本場となっているからである。  そこは東京付近としては気候も温暖で、地味もよく、そこに温泉の熱を利用することができることから、むかしから花造りがさかんである。春のチューリップ、ヒヤシンスからはじまって、一年じゅう東京の花屋の店頭を飾る花々は、多くここで栽培されるのである。  その花造りのなかでもいちばん大規模なのは花乃屋花壇といって、これは二軒の温泉旅館のうちのひとつの花乃屋旅館が経営しており、花壇は花乃屋旅館のすぐ隣にある。だから、花乃屋旅館に泊まった客は、旅館の庭から裏木戸をぬけて、かぐわしい花壇のそぞろ歩きに、花の香を満喫することができるし、また希望によっては新鮮な花々を、|土産《み や げ》にもって帰ることもできるのである。  さて、昭和二十×年四月二十三日のこと、この花乃屋旅館ならびに花乃屋花壇で、大変なことが発見された。その|顛《てん》|末《まつ》というのはこうである。  その朝はやく、花乃屋花壇の園丁山内三造は、いつものように粗末な木戸を開いて、花壇のなかへ入っていった。断わっておくが広さ千坪にあまるこの花壇には、かくべつこれという垣根もなく、ただ針金を張りめぐらしてあるだけで、木戸なども板の枠に金網を張ったのを、風であおられないために、|輪《わ》|鍵《かぎ》でとめてあるだけで、べつに錠などおろしていない。つまり、この土地ではどの家でも花を造っているから、わざわざよその花壇を荒らしにくる、花盗人などいないのだ。  さて、まえにもいった昭和二十×年四月二十三日の朝、山内三造は、花壇のなかへ入っていくと、ひとつひとつ花壇を見てまわった。  まだ、春先のこととて、花壇に咲いている花は、それほど種類は多くない。パンジー、デージー、桜草、それに早咲きのチューリップやヒヤシンスくらいのものである。しかしひといろの花々が、帯のような花壇からこぼれるように咲いているのは、目がさめるようにみごとである。  日はまだ上がっていなかったけれど、夜露にぬれた花々が、あかね色に染まった東の空の輝きを映して、|虹《にじ》のようにきらきら光っているのが、美しいと同時に健康的でもある。  もう|蜂《はち》が来ている。  園丁の山内三造は満足そうな吐息をもらして、ひとつひとつ花壇を見て歩く。いつも彼は仕事にとりかかるまえに、いちど愛する花壇のすみからすみまで、見てまわらなければ気がすまないのだ。  パンジーの花壇のつぎがデージーの花壇、そのつぎの花壇は桜草。それからヒヤシンスの花壇にチューリップの花壇。  チューリップの花壇は二十あるが、いま三造が入ってきた入口からは、いちばん奥に位している。と、いうことは花乃屋旅館の裏木戸からは、いちばん近いところにあるということを意味している。  三造はひとつひとつそのチューリップの花壇を見て歩く。ほかの花々も美しいが、チューリップは花が大きいだけにいっそうみごとだ。まだ夜が明けきらないので、花はすっかり開ききっていないが、いま、眠りからさめかけたように、半開きになった、いろとりどりの花のなかや、広い葉の根もとに、露がころころ光っているのがすがすがしい。  三造はまた満足そうな吐息をもらしかけたが、その吐息は急に口のなかで凍ってしまった。二、三枚むこうのチューリップの花壇のまんなかに、女がひとり寝ている。しかも裸……。  三造はそれを見ると、いっとき、棒をのんだように立ちすくんでいたが、急にむらむらと怒りがこみあげてきた。女の下になっているチューリップはどうなったか……。  やにわに彼は、二、三枚花壇を飛び越えて、そのほうへ駆け出した。が、そばまで来ると、また、棒をのんだように立ちすくんだ。  チューリップの花壇のまんなかに、女がひとり、生まれたときのままの姿であおむきに寝ているのである。ふさふさとした髪を頭の下から首に巻きつけ、顔を少し横に向け、両手を頭のうしろに組み、左脚の|膝《ひざ》を立て、右脚をその上に重ねるようにして寝ている姿が、ちかごろはやるヌード写真のようにきれいである。  むっちりとした、形のよい、ふたつの乳房の上に、|珊《さん》|瑚《ご》の玉でもちりばめたようなかわいい乳首。きゅっとひきしまった腰、日本人には珍しく、のびのびとした脚、|太《ふと》|股《もも》の付け根の外がわに、えくぼのようなくぼみのあるのも心をそそる。  三造はごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみ、それから気がついたように、あわててあたりを見まわした。目が熱っぽくぎらぎら光って、息づかいが荒くなっている。三造はまだ五十まえ、老い朽ちるというにははやい男の目に、これはまた、あまりにも刺激的な女のポーズだ。  三造はまたごくりと生唾をのみこんだ。  彼はこの女を知っているのである。いや、どこのなんという女だか、はっきり知っているわけではないが、その顔には見覚えがある。  それはヌード写真とやらのモデルを稼業としている女で、ついこのあいだ、パトロンだか、単なる客だか知らないが、四十格好の紳士といっしょに花乃屋旅館へ来て泊まったとき、旅館の主人の了解のうえで、チューリップの花壇のまんなかで、これと同じポーズでヌード写真を撮らせていったのである。  そうそう、名前はアケミといった。  だから三造ははじめのうち、アケミがからかっているのであろうと思った。  昨夜はまた客と隣の花乃屋旅館へ来て、きょうまたここでヌード写真を撮らせるつもりなのだろうか、そのまえに客と|喧《けん》|嘩《か》でもしたのか、それとも自分をからかうつもりで、いたずらをしているのであろう。よしよし、相手がその気なら、こっちもひとつ楽しんでやろう。  そこで三造は女のそばにしゃがみこむと、 「もしもし、アケミさん。アケミさん、なんぼ裸が商売だからって、朝っぱらからこんなところで寝ていると風邪をひくよ」  そういいながら、ちょっと乳房をくすぐったが、アケミはそれでも目をつむったきり、身動きひとつしない。 「うっふっふ。おまえさんも強情な女だな。起きなってば起きなよ。風邪をひいたって知らないよ」  と、だんだん大胆になって、ぐっと乳房を握りしめたが、そのとたん、女の体の冷たさに、三造はぞくりとしたように目をみはった。 「それ見ねえ、アケミさん、アケミさん、おまえすっかり冷えきってるじゃないか。起きなってば起きないか」  と、肩に手をかけて二、三度はげしくゆすぶったが、そのとたん、首に巻きついていた髪の毛が、ばっさり花壇の上に落ちて、その下からあらわれたのは、太い、なまなましい紫色の|紐《ひも》の跡。  三造がいくらお人好しでも、そこまで見れば事態は|明瞭《めいりょう》である。 「わっ!」  と、叫んで飛び上がると、二、三歩あとずさりして、もう一度女の顔から|咽喉《のど》のあたりへ目をやったが、だしぬけに、 「ひっひ、人殺しだぁ!」  と、咽喉を絞めつけられるような声をあげ、愛する花壇もなんのその、チューリップの花踏みしだいて、花乃屋旅館の裏木戸から飛び込んだ。  花乃屋旅館の裏木戸は開いていたのである。      二  この事件がのちにあんなにも世間を騒がせたのは、事件そのものの怪奇さよりも、犯人と目される人物の、あまりにも巧妙な逃避行にあった。犯人はだれとわかっていながら、そして、全国にその写真がバラまかれながら、しかも一か月以上にわたってつかまらず、係官を|切《せっ》|歯《し》|扼《やく》|腕《わん》せしめたのである。  その意味でこの事件は、メッカ殺人事件と比較される。事実また、この事件の犯人は、一種のメッカ・ボーイと判断された。  それはさておき、三造の報告によって所轄警察から係官がおおぜい駆けつけてきたのは、それから半時間ほどのちのことで、そのために、花乃屋旅館に泊まっていたいく組かのアベックたちが、どのような恐慌をきたしたか、それはここにはいうまい。  それよりもここで手っ取りばやく、検視の結果を述べておこう。  死因は絞殺によるもので、その時刻はおそらくその前日、すなわち二十二日の夜の九時ごろのことであろうといわれる。絞殺に使ったものは、男の派手な絹のマフラーで、これは死体の頭の下に遺棄されていた。それが三造の目にとまらなかったのは、マフラーの上に、被害者の髪の毛が乱れていたからである。  死体解剖の結果……いや、解剖を待つまでもなく、ちょっと注意深い目で見れば、男とある種の交渉があったことは明らかだが、解剖の結果によると、驚いたことには、それが女の死後行なわれたらしいということである。すなわち、犯人は女をマフラーで絞殺したのち、その死体を犯していったのである。  そのことがこの事件に、一種異様な色彩を投げかけたのであった。  さて、被害者の身元はすぐにわかった。それは南条アケミというヌードのモデルで、以前にも二、三回男と来たことがあり、いちばん最近に来たのは十日ほどまえで、金田康造と名乗る中年の紳士といっしょに、昼間に来て夜の八時ごろに引き上げていった。  この金田康造というのがアマチュア・ヌード写真家とみえて、そのとき花乃屋旅館の主人、すなわち花乃屋花壇の主人に交渉があり、花の損害賠償をするという約束で、チューリップの花壇をバックとして、ヌード写真を撮っていたのである。  さて、事件のあった四月二十二日の夜のことについては係官とおかみや女中の一問一答の形式で述べていくことにしよう。  まず、おかみの証言だが、 「昨日の四時ごろのことでした。東京からの電話だというので出てみると、それが南条アケミさんでした。はじめ南条アケミといわれても、ちょっとわからなかったのですが、このあいだチューリップの花壇で写真を撮ったものだといわれて、ああ、あのかたかと思い出したのでございます。で、そのお電話のおもむきは、今夜、連れといくから離れをひとつ、あけて待っていてほしいということでした」 「南条アケミというのは、いつも来るときに、あらかじめ電話でいってくるのかい」 「いいえ、そういうことははじめてでした。なかには電話で申し込んでいらっしゃるかたもよくございますんですけれど」 「南条アケミがゆうべに限って、電話で申し込んできたのには、なにかわけがあるのかね」 「それは、たぶんこうだろうと思います、いつもはお連れさんとごいっしょにいらっしゃるんですが、ゆうべはべつべつでございましたから。……そうそう、そのことも電話でおっしゃいました。南条と指名していくひとがあるから、もし自分が遅れても、離れへ通しておいてほしいと……? それで、あの|牡《ぼ》|丹《たん》の家をあけておいたのでございます」 「牡丹の家というのは……?」 「わたしどもではあの離れに、牡丹の家とか桐の家とか、いずれも花の名前がつけてございますので……」 「なるほど、それで時刻は……」 「八時にはそちらへいくつもりだが、ひょっとすると、自分のほうが遅れるかもしれないけれど、けっしてその……お連れさんを帰してくれるな、自分がいくまで、なんとしても、引きとめておいてくれるようにと、とても熱心なおことばでした」  係官はにやりと笑って、 「そうすると、女のほうからよほど熱をあげているんだな」 「そのようでございました」 「ところで、男がさきに来たの? 女がさきに来たの?」 「男のかたがさきでした。八時ちょっとまえでしたが、派手なチェックのオーバーに、ともぎれの鳥打ち帽子をお召しになった、……さあ、|年齢《とし》はおいくつぐらいでしょうか、たぶん二十代でいらっしゃいましょうが、そのかたが本館のお帳場のまえへいらして、南条という女は来てるかとおっしゃいますので、まだお見えになっておりませんが、どうぞといって、お千代にあの牡丹の家へ御案内させたのでございます」 「あの離れは本館の玄関から、靴のままでいけるんだね」 「さようでございます。通り庭になっていて、裏の庭に抜けられるようになっているものですから」 「ところで、その男の|容《よう》|貌《ぼう》や年齢だがね、二十代じゃ|漠《ばく》|然《ぜん》としてるじゃないか。いったいいくつくらいの、どういう男だね」 「それがねえ、|旦《だん》|那《な》」  と、おかみはためいきついて、 「お千代もわたしもそのかたの顔を、はっきり見てないんでございますよ」 「はっきり見てないというと……?」  係官ははじめて不思議そうに目をみはった。 「それというのが、そのかた、とても大きな青眼鏡をかけていらっしゃいましたし、それに鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、オーバーの|襟《えり》をお立てになったうえに、紫色のマフラー……死体のそばに落ちていたあれでございます。あのマフラーで鼻の上までかくすようにしていらっしゃいましたので……」 「それじゃ、はじめから計画的に、顔をかくしていたというんだね」 「さあ、それはどうでしょうか。あんなことがあってみると、そうとも思えますんですけれど、離れへいらっしゃるお客さま、男のかたでも女のかたでも、顔をお包みになってらっしゃるかた、そう珍しくもございませんので、そのときはべつに気にもとめずに……」 「しかし、おかみは帳場で会っただけだからともかくとして、案内した女中が顔を見てないというのは……?」 「それはこうでございます」  と、こんどは女中のお千代の証言である。 「わたしども離れへ御案内すると、すぐこちらへ引き返してきて、お茶とお茶菓子をもっておうかがいして、そのときにお召し上がり物の御注文やなんかおうかがいするのでございます。それでゆうべもお座敷までご案内して、お座布団やなんかおすすめして、こちらへすぐ引き返してまいりましたんですけれど、そのときには、帽子もおとりにならずに、|外《がい》|套《とう》もお召しになったまま縁側に立って庭をながめていらっしゃいました」 「そのとき、なにか話をしなかった?」 「ええ、あの南条さまというかたからのおことづけを申し上げました。自分があとになっても、けっして帰してくれるなという……」 「男はなにか答えたかね」 「ええ、低い声でお笑いになって、あいつはしつこいから困るよというようなことをおっしゃいました。ええ、お庭のほうをごらんになったまんま……」 「なるほど、それでそのときは顔を見なかったとしても、お茶をもっていったときは……?」 「ところが、そのときにはもう奥の四畳半にお床をのべて、横になっていらっしゃいましたので。……|襖《ふすま》は半開きになっておりましたけれど、四畳半の電気が消えておりましたものですから……」 「なるほど。それでそのときなにか話をしなかった?」 「ええ、あの、わたしがずいぶん早手回しでいらっしゃいますねと申し上げますと、やっぱり低い声でうっふっふとお笑いになって、ちょっときまりが悪いけど、少し風邪ぎみなもんだからとおっしゃって……そういえば、お声も少々しゃがれたようなところがございました」 「それからほかになにか話は……?」 「はい、わたしが御注文をおうかがいいたしますと、ビールを二本とつまみものをもってくるようにとのことでございました。そのとき、今夜は泊まって朝ごはんを食べて帰るから、お会計をもってきてほしい、先払いにしておきたいからとおっしゃいました」 「それで……?」 「ビールをもってまいりましたとき、勘定書きを差し上げようといたしますと、四畳半のほうから、そこにお金が置いてあるからそれをもっていくようにとおっしゃいます。見るとなるほど、|卓袱《ち や ぶ》|台《だい》の上にお札がならべてございます。少し多すぎるんでございますけれど、それは祝儀だとおっしゃいましたので……」 「それでとうとう顔をはっきり見ずじまいか」 「はい」 「それで女は何時ごろにやってきたの」 「ちょうど八時半でした」  と、これはおかみの答えである。 「おかしいほど急いでいらっしゃいましたので、わたしそのときなにげなく時計を見ましたんですの。それでさきほどからお待ちになっていらっしゃいます、と、お千代に御案内させたのでございます」  そのあとはお千代の証言で、 「さきほど申し忘れましたけれど、お勘定をさげていただいたとき、南条が来たらすぐビールにするから、お茶はもういらない。あれが来たら玄関まで案内してやって、すぐ引き取ってよろしいとおっしゃいました。そのとき、宿帳も明朝にしてほしいとおっしゃって。……そうそうそのとき、雨戸を閉めていってほしいとおっしゃるので、雨戸も閉めてまいりました。それですから、南条さんがお見えになると、玄関まで、御案内して、すぐ本館のほうへ引き返しましたので……南条さんは玄関へお入りになると、なかから戸締まりをしていらっしゃいました」 「南条とはなにか話をした?」 「はあ、あの、お玄関先まで御案内するあいだだけのことですから、そうたいしては……風邪ぎみだとおっしゃって、お床のなかにおよりになっていらっしゃいますとか、すぐビールになさいますというお話でしたとか、そんなことを申し上げたくらいのことで……」 「なにか男の身元がわかるようなことはいわなかった?」 「いいえ、いっこう……ただもうとても急いでいらして……」  お千代もさすがにそのときのことを思い出したか、ちょっとにやにや笑った。      三  以上、おかみと女中の証言でもわかるとおり、南条アケミをここで待っていた男は、計画的に顔をかくしていたのか、それとも偶然にそういう結果になったのかわからないが、とにかくふたりともほとんど顔を見ていないのである。  ただ、ふたりの一致した意見によると、身長は五尺三寸くらい、男としては小柄のほうで、どちらかといえば色の浅黒い青年だったように思うと、ただそれだけしかわからない。  さて、こんどは今朝のことだが、園丁、山内三造の報告によって、現場へ駆けつけた一同は、被害者を南条アケミだと認めると、すぐ引き返して牡丹の家をのぞいてみた。朝はやかったので雨戸がまだ閉まっているのに不思議はないが、玄関の戸締まりはしてなかった。  そこで一同はおっかなびっくりでなかへ入ってみると、家のなかはもぬけのから、男の姿が見えないのは当然としても、南条アケミの衣類から持ち物いっさいなくなっているのには驚いた。  それについておかみはこういっている。 「これはわたしどもの手抜かりだったのでございますが、ふつう離れのお客様は、お履物を本館のほうへお預かりすることになっているんでございます。ところがゆうべのお客様は、お勘定を先払いにしてくださいましたので、ついお履物をそのままにしておきましたのがいけなかったようで……」  なんと、犯人は女の靴までもちさっているのである。  さて、花乃屋旅館からの報告によって、駆けつけてきた係官の調査の結果、判明した状況はだいたいつぎのとおりである。  女中のお千代が運んだビールは、二本ともすっかり飲み干されており、卓袱台の上には、ビールの泡のついたコップがひとつ、半分ほどビールの残ったコップがひとつ置いてあり、つまみものなども相当食い荒らされていた。  それに卓袱台に向かい合って置いてある座布団の位置や、灰皿のなかに三本残っているピースの吸い殻によっても、南条アケミと男のふたりが、ここで相当の時間、差し向かいになっていたことと思われる。吸い殻のどれにも口紅の|痕《こん》|跡《せき》が認められないところをみると、これは男が吸ったものなのだろう。  さて、四畳半のほうだが、寝床のようすを見ると、明らかに男とふたり寝たらしく、ふたつの|枕《まくら》のどちらにも頭の重みでできたくぼみがあり、ひとつの枕には長い毛髪が二本からみついていた。シーツなどもかなりたくれて乱れている。  しかし、犯人がここでアケミを絞殺して犯したのちに、裸にしてチューリップの花園へ運んでいったのか、それとも、生きているアケミを裸にして、チューリップ花壇へ連れていき、そこで絞殺して犯したのか、そこまではよくわからない。あるいはまた、ここで絞殺したのちに、死体を裸にしてチューリップ花壇へ連れていき、花のなかで犯したのではないか。……チューリップの花園のひどい荒れようからみると、そういう場合も考えられるのである。  どちらにしても花乃屋旅館の裏木戸には、べつに錠がおろしてあるわけではなく、掛け金と|閂《かんぬき》で二重に戸締まりがしてあるだけだから、内部からならば、だれにでも自由に開くことができ、死体を運ぶにしろ、生きているアケミを連れ出すにしろ、それほどむずかしいことではない。さらに、花壇のほうの入口の戸も|輪《わ》|鍵《かぎ》でとめてあるだけなのだから、犯人の逃亡もきわめて容易に行なわれたことになる。  それにしても、係官に舌をまかせたのは、この犯人は犯行後入浴しているのだ。そのことは脱衣室にかかっているそなえつけの手ぬぐいがぬれていることと、また、浴槽の湯が|石《せっ》|鹸《けん》でかなりよごされていることでもわかるのである。  もっとも内部から玄関の戸締まりをしてしまえば、外からうかがわれる心配のない独立家屋だから、このように悠々とふるまうことができたのだろうが、それにしても、やはりその大胆さには驚かずにはいられない。  さて、アケミがやってきたのが八時半、差し向かいでビールを飲むのに約半時間かかったとして、犯行が九時というのは|辻《つじ》|褄《つま》が合っている。その後、アケミをチューリップ花壇へ連れ出したり、そのあとで入浴したり、犯人は相当いろんなことをやっているから、ここを立ち去ったのは、はやくも九時半だろう。駅までは十分もあればいけるから、九時四十分前後に駅から電車に乗った男……。  警察ではその線で捜査の歩を進めていったが、しかし、駅員の申し立てによると、その時刻におかみや女中の証言に該当するような人物を、見かけた記憶はないという。また、その時刻にSから自動車をとばした人物も見当たらなかった。  こうして花乃屋旅館を立ち去ってからの犯人の足どりはまったく不明で、また、犯人がなぜ、女の衣類、持ち物から靴にいたるまでもちさったのか、その理由がわからず、それが係官を悩ませたのだが、その後、被害者南条アケミの交友関係を調査していくにしたがって、|俄《が》|然《ぜん》、有力な容疑者が浮かび上がってきた。      四  新宿の三越の裏通りに、東亜美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》という|真鍮《しんちゅう》の看板をかかげた小さな店がある。この店はちかごろはやるヌード写真家に、モデルを紹介する仲介業者で、Sで殺された南条アケミは、この倶楽部に所属するモデルでも、売れっ子のほうであった。  四月二十三日の昼過ぎのこと、この店の奥にあるうすぎたないモデルだまりで、三人のモデルが事務員をまじえて、雑談に花を咲かせているところへ、表のドアを開いて入ってきた男があった。  事務員がさっそく受付へ出ると、 「マスターはいないかね。マスターがいたら、ちょっと会いたいのだが……」  と、差し出した名刺を見ると警視庁捜査一課という肩書きがついているから、事務員はどきりとしたように目をみはった。どうせヌード・モデルを紹介しようというような仕事だから、たたけばどんなほこりが出ないものでもない。 「はあ、あのマスターはいま留守なんですが、どういう御用件でしょうか」  事務員の本田がおっかなびっくりでたずねると、 「いや、この倶楽部に南条アケミというモデルが所属しているね。あの子のことについてちょっとたずねたいことがあるんだが……」 「アケミちゃんはたしかにうちのメンバーだが、あの子がどうかしたんですか」 「いや、ちょっとあの子の交友関係、ことに異性関係についてききたいんだが……」  ふたりの押し問答がきこえたのか、 「ちょっと、ちょっと、本田さん、アケミちゃんがどうかしたの?」  と、奥のモデルだまりから、モデルのひとりが声をかける。 「ああ、このかた村田さんといって警視庁の刑事さんなんだが、アケミちゃんのことについてききたいって……?」  刑事ときいてモデルたちは、まあというように顔見合わせる。たとえうしろ暗いことはしていないにしても、ヌードが売り物の女たちだ。刑事ときくとやはり|尻《しり》こそばゆい感じがするらしい。 「あのひとたち、みんなモデル?」 「ええ、そう。そうそう、アケミちゃんのことならぼくよりも、あの連中におききになったほうが近道かもしれません。どうぞこちらへお入りになって……」 「ああ、そう、それじゃ……」  表の事務所を抜けて、その奥にある畳敷きのモデルだまりへいくと、モデルたちは気味悪そうに肩をすくめて顔見合わせる。  村田刑事はにこにこしながら、モデルたちの顔を見わたして、 「いや、だしぬけに押しかけてきてすまないねえ。べつに心配なことをきくんじゃないから、硬くならんようにしてくれたまえ。南条アケミって子、知ってるね。あの子の交友関係……と、いうより異性関係を知りたいんだがね。あの子が夢中になってるような男のことを知らないかね」 「アケミちゃんが夢中になってるひとってば、キンちゃんしかないわね。そりゃほかにもいろいろいるかもしれないけれど……」  裸になったらさぞおっぱいがみごとだろうと思われる、太っちょの女がにやにや笑った。 「あ、きみ、名前なんていうの」 「あたし賀川晴江、どうぞよろしく」 「いやあ、あっはっは。それでキンちゃんとはどういうの? 年齢はいくつくらい? なにをする男なの?」 「キンちゃんのことなら晴ちゃんより、ここにいるナオミちゃんにきいたほうがいいのよ。ナオミちゃんもキンちゃんと仲好しだから」  少し年齢を食って意地悪そうなのが、煙草を口にくわえたまま、そばにすましている女を|顎《あご》でしゃくって、あざわらうようにいった。刑事がさっそくその女の名をたずねると、杉本チカ子と答える。 「あの……」  と、チカ子にあてこすられたナオミというのが、ちょっと|頬《ほお》をあからめながら口ごもって、 「アケミちゃんがどうかしたんですの? どうしてそんなことをおたずねになるんですの?」  ナオミというのは姓を安川といって、三人いるモデルのなかで、いちばん容色もよく、姿もよい女で、ことばつきもしっかりしている。 「いや、それはまだここではいえないんだが、……とにかくキンちゃんという男のことをきかしてもらいたいね」 「はあ、あの……」  と、ナオミはいよいよ顔をあからめ、ほかのモデルたちの視線を避けながら、 「キンちゃんというのは山崎欣之助といって、慶応へいってる学生さんなんです」 「あら、うそよあの子、もう学校なんかいっちゃいないわよ」  杉本チカ子が憎々しげにことばをはさむ。この女は目にも口にも毒がある。 「でも、まだ籍はあるんでしょう」  さあ、どうだか……チカ子は煙草を輪に吹きながらうそぶいた。晴江は首をすくめておもしろそうに、にやにや笑っている。  刑事もだいたいの事情を察したらしく、 「まあまあ」  と、ふたりのあいだに割って入って、 「と、するとまだ若いんだね。二十……」 「二とかきいております」 「あんたより三つ下ね」  間髪をいれずおチカがことばをはさむ。ナオミはさっと青ざめたが、唇をふるわせただけで、べつになんとも答えない。 「それで住まいは……?」 「お家は小田急沿線の経堂にあって、お父さんは医学博士だとかきいております。でもほとんどお家へは帰らずに、友達のところやなんかを回って歩いて……」 「あんたみたいなお友達のところね」  チカ子の毒舌はほとんどとどまるところがない。刑事はそれをもてあましながら、しかしかえってそのほうが、ナオミのあらたまった答弁よりも参考になると考えている。 「それで身長やなんかどう?」 「身長はあたしぐらいでしたかしら。男としてはあまり大きくないほうで……」  チカ子の毒舌を恐れるのか、ナオミは消え入りそうな声だったが、そのとき横から口をはさんだのは、太っちょの晴江である。 「刑事さん、それについてはあたしから申し上げるわ。なんぼなんでもナオミちゃんは恋人のことだからいいにくいわね。キンちゃんてひとね、とってもかわいいのよ。身をもちくずして、勘当みたいになってるんだけど、育ちが育ちというのか、坊や坊やしててね、だからあたしたちがみんな夢中なのよ。キンちゃんのごきげんとりにさ。ところがキンちゃん、とうとうナオミちゃんのもんになったでしょ。だからそこにいるおチカさんなんかも、ごきげんすこぶる斜めというわけなのよ。ほっほっほ」  これに対しておチカがなんとか答えるかと思いのほか、煙草の煙を輪に吹きながらただにやにや笑っている。 「だけど、刑事さん、キンちゃんいったいどうしたのよう。アケミと心中でもしたの?」 「いや、そのまえにキンちゃんの服装だがね、オーバーやなんかおぼえていない?」 「そうねえ、いつも派手ななりしてたわね。いささかイカレポンチみたいだけど、キンちゃんに限って感じがよかったわ。だけど、ちかごろどんな服装をしてたか、それはナオミちゃんにきくのがいちばんね。あんた、このまえの日曜日に、キンちゃんと|百《も》|草《ぐさ》|園《えん》へハイキングにいったてぇじゃない?」 「ええ……」  と、ナオミはことば少なに答える。 「それじゃ、ちょっとナオミ君に見てもらいたいものがあるんだけど、このマフラーに見覚えはないかね」  刑事が取り出した紫色のマフラーは、いうまでもなくアケミの首に巻きついていたものである。ナオミはいうまでもなく、チカ子も晴江もはっとしたようにそのマフラーに目をそそぐ。ナオミはちょっと手に取ってみて、 「ええ、それキンちゃんのマフラーのようですけれど。……晴江さん、あんたはどう思う」 「キンちゃんのらしいわねえ。しかし、刑事さん、それ、どういうんですの」  一同が不安そうに目をみはっているところへ、表からマスターの鈴木良雄が帰ってきた。      五  マスターの鈴木は事務員の本田から、刑事の来意をきくと、不安そうに|眉《まゆ》をひそめて、モデルだまりへ入ってきた。 「警視庁のかただそうですね。わたしがここの責任者で鈴木というもんですが、なにか南条アケミに不都合なことでも……」  鈴木というのは四十五、六だろう。大柄の、眉の太い、肉の厚い、いかにも|精《せい》|悍《かん》そうな顔をした男である。 「いやぁ、これはよいところへ……ちょっときみとふたりきりで話をしたいんだが……」 「ああ、そう、ではわたしの部屋へ来てください」  マスターの部屋は二階にある。せまい階段を靴のままで上がっていくと、六畳ほどの天井の低い洋室があり、デスクだの|椅《い》|子《す》だのがごたごたならべてあるその周囲の壁にはいちめんに、ここのモデルをモデルとしたヌード写真がはりつけてある。  村田刑事はそのなかのひとつに目をとめると、思わず大きく目をみはる。  チューリップの花に取り囲まれて、あおむけに寝ころんでいるそのヌード写真は、さっきS署から送られてきた現場写真にそっくりだった。むろん現場写真はこれほど芸術的(?) ではなかったが……。  マスターの鈴木も刑事の視線に気がついて、 「ああ、それ、南条がモデルなんですがね、ちょっとよく撮れてますね」 「これ、いったいだれが撮影したの?」 「写真の下に撮影者の名前が書いてございましょう。斎藤泰治さんといってうちのお得意なんです。あのひとには珍しい……と、いうとしかられるんですが、とにかく傑作ですね。斎藤さん、こんどどこかの展覧会へ出すんだと張り切ってらっしゃいます。しかし、南条がどうかしたんですか」  刑事はいそがしく頭のなかで考える。Sの花乃屋旅館で、アケミをモデルとしてヌード写真を撮っていったのは、金田康造という男だときいているが、それでは偽名を使っていたのか。もっともああいう宿へ来る人物はほとんど本名を名乗らないものだが……。 「その南条という子のことについて話をするまえに、ちょっとききたいことがあるんだが、山崎欣之助という青年ね」 「ええ、キンちゃん、なにかあの男について、おたずねがあるとか……」 「ああ、そう、そのキンちゃんて青年も、あのヌード写真を見たことがあるかね」  鈴木はまじまじと刑事の顔を見つめながら、 「どういうわけで、そういうおたずねがあるのかわかりませんが、斎藤さんがその写真をもって、大得意でここへ飛び込んでらっしゃったとき、キンちゃんもちょうど居合わせて、さかんに斎藤さんをおだててたのをおぼえてますが……」 「なるほど、そうするとキンちゃんてのは、しょっちゅう、ここへ来てるんだね」 「しょっちゅうてわけじゃないがよく来ますね。女たちが騒ぐもんだから」 「いま下で晴江って子にきいたんだが、みんなキンちゃんに夢中なんだって」  鈴木は白い歯を出して笑いながら、 「ええ、まあ、みんな相当のもんですな。いや、うちのモデルばかりじゃない。このへんの女、みんなそうですよ。キャバレーのダンサーやストリッパーで、夢中になってあいつを追っかけてるのがいますよ。銀座あたりでもそうらしいですね」 「つまり、どういうんだね。女たらし?」 「まあ、結局はそうなんでしょうが、あいつのほうから口説くわけじゃないんですね。女のほうから口説かれるんです。つまり女がかわいがっておもちゃにしたいってタイプの男なんですね」 「それで生活のほうは? 実家から勘当同様になってると、いま階下できいたんだが、女をしぼるのかね」  鈴木はじろりと不快そうに刑事を見て、 「いや、そんな悪質なんじゃない。それならわたしもモデルたちに意見をしますよ。そりゃキンちゃん、小遣いのないときなんか、お茶ぐらい女におごらせるでしょうし、女の家へロハで泊まるくらいのことはするでしょう。しかし、女をしぼるなんてことは……」 「じゃ、生活費やなんかは……」 「母親が甘いんですね。父親に内証で金を届けてくるんです。それに鎌倉に祖母がいて、これがキンちゃんに目がないときてる。困るとそこへせびりにいく。まあ、とにかく坊っちゃんですね。だから女が騒ぐんですよ」 「それで、関係のある女も相当あるんだね」  村田はにやりと笑って、 「そりゃまあ、あちこちにあるでしょう。どうせ男と女ですからね。うちのナオミなんかもできてるらしい。しかし、まあ、ままごとみたいなもんですな。われわれの目から見ればね。あっはっは」  鈴木はこともなげに笑っている。 「ところでいまキンちゃんに会いたいと思えば、どこへいけばいいかしらね」 「さあ」  と、鈴木は首をひねって、 「それはちょっとぼくにもわからないな。とにかく変幻自在ですからね。毎日やってくるかと思えば、十日も二十日も顔を見せないこともある。そんなときにゃ、ほかの|河岸《かし》へはまりこんでるんですね。しかし、ほんとにキンちゃん、どうしたんですかね。本田のいうのに、南条と心中でもしたんじゃないかっていってるんだが、まさかねえ……」 「いや。それをいうまえに、キンちゃんの写真があったら欲しいんだが……」 「写真ならいくらでもあるでしょう。本田に探させますが、しかし……」  と、鈴木は刑事の顔から目も離さず、 「いったい、キンちゃんが、なにをやらかしたんです」  刑事は腕時計に目をやると、 「もう、そろそろ夕刊が出るじぶんだからいってもいいがね。昨夜、南条アケミは温泉の花乃屋旅館で絞殺されたんだ。このマフラーで。……犯人はその場から逃走したが、いま下できくと、このマフラーはキンちゃんのものらしいといっている。だからキンちゃんが立ちまわったら、さっそく警察のほうへ知らせてくれたまえ」  マスターの鈴木は|椅《い》|子《す》からずり落ちそうな格好で、ポカンと刑事の顔を見ている。      六  こうして犯人は、山崎欣之助と認定され、その写真は全国の警察へ配られた。新聞でもその当座、連日のようにこの事件を書きたてたが、それにもかかわらず、花乃屋旅館を出たのちの欣之助の足どりはいっさいわからないのである。  この欣之助の逃避行も逃避行だが、事件そのものも、当時大きな問題を世間に投げかけて、どの新聞でもいろんなひとが欣之助の性格について批判を加えた。  欣之助がアケミを絞殺したのは、おそらくその場のはずみであったろう。愛欲遊戯の高じたあげく、つまり古風なことばでいえば痴話が高じてというやつだろう。ここまでは欣之助に同情できないこともないが、問題はその後の彼の行動である。  欣之助はそのあとでアケミを犯し、しかもその死体をチューリップ畑に運んで、ヌード写真と同じポーズをとらせている。そういうところに現代青年の、なにごとも戯画化せずにいられぬ性向が見られるのではないか。……ある高名な文明批評家は、この事件についてそう論評を加えていた。  たしかに、欣之助のやりかたには、いろいろ異常なところがあった。  彼はなぜ女の衣装と持ち物から靴にいたるまで、いっさいがっさいもちださねばならなかったのか。彼はそれによって、被害者の身元の判明するのを、遅らせようとしたのだろうか。欣之助はまた宿のおかみや女中に、できるだけ顔を見られないようにしていたらしい形跡があるというのに、いっぽう彼は現場に、大事な証拠のマフラーを残している。  そういうところから、ある新聞は彼のことを、自分では綿密に計画したつもりで、大きな手抜かりをしているところ、すなわち彼もメッカ・ボーイのひとりであろうと断言している。  こうして欣之助が消息を絶ってからひと月たち、犯行以来四十五日め、すなわち六月八日にいたって、偶然のことから、欣之助の逃避行の秘密を解く|鍵《かぎ》になるのではないかと思われる、ある重大な事実が発見された。  それを発見したのは新宿駅の一時預けの係で、佐々木という青年である。  その日、佐々木は山積みするトランクやスーツケースを整理していたが、ふとしたことから棚の上方にある古びたトランクを、床の上に取り落とした。そのトランクというのはもうひと月以上、預けっぱなしになっているもので、佐々木がいつも整理に業を煮やしていたしろものなのである。 「ちぇっ! このトランクめ、どこまでひとに手数をかけやぁがる」  佐々木はいまいましそうにそのトランクをポンとひとつ足でけったが、そのとたん、トランクのふたがぱっくり開いて、なかからころころ鳥打ち帽子がころげ出した。たぶんトランクの錠前が、古びて役に立たなくなっていたのだろう。 「ちぇっ! なんだい、このボロトランクめ!」  佐々木はいよいよいまいましそうに、帽子を取り上げてトランクのなかへほうりこもうとしたが、そのとたん、どきりとしたように目をすぼめた。鳥打ち帽子の上に、べっとりと黒い大きなしみがついている。そのしみを、血ではないかと気がついたとき、佐々木はまたぎょっとしたように呼吸をのんだ。  あわててトランクのなかをのぞくと、鳥打ち帽子とともぎれの派手なチェックのオーバーに、同じく派手な背広にズボン、靴まで入っているほかに、女の洋服が上から下まで、オーバーからズロースまでそろっており、ほかにハイヒールの靴にハンドバッグにネッカチーフ。  佐々木もヌード・モデル殺人事件の記事は読んでいた。行方不明の欣之助の服装については、当時、新聞に詳細に伝えられていた。またもちさられた被害者の衣類と持ち物などについても詳しく品目があげられていた。  いまトランクのなかから出てきた品々は、新聞に伝えられていた明細と合致するではないか。  ふるえる指で佐々木はハンドバッグを開いた。ハンドバッグのなかには名刺入れが入っており、名刺入れのなかには名刺が五、六枚、いずれも南条アケミと刷ってある……。 「わっ、大変だ、大変だ、大変なものがあらわれたぞオ……」  佐々木の叫び声にばらばらと、係の者が集まってきて、ここにはしなくも、一か月以上も埋もれていた、ヌード・モデル殺人事件の重大な秘密が暴露したのである。  新宿駅からの報告によって、淀橋署と警視庁からすぐに係官が駆けつける。調査の結果、そのトランクが四月二十三日の朝、すなわちS温泉で殺人があった翌朝、預け入れられたものであることがわかった。  これら男女二着の洋服は、すぐに関係者に見せられたが、それがあの夜、山崎欣之助と南条アケミの身につけていた衣類、持ち物にちがいないことが確かめられた。しかも欣之助のオーバーにもべったりと血のしみがついているのである。  アケミの死体には外傷はなかったから、それでは欣之助がけがをしたのか、いや、それについては死体解剖にあたった医者が、つぎのように説明している。  アケミの死体の鼻孔には、おびただしい血がこびりついていたから、それはおそらくアケミの鼻血であろう。アケミは絞められたとき、鼻血を出したにちがいない。……と、そういえばアケミのオーバーにもごく少量だが血のしたたりがついていた。  ここにいたって欣之助が、なぜ花乃屋旅館からアケミの衣類いっさい、靴までももちだしたかという理由が、はじめて説明されるのである。欣之助の帽子やオーバーには血がついている。そんなものを身につけて歩くわけにはいかぬ。そこで欣之助は女装して逃げたのではないか。すなわち、欣之助は女の衣装をもちさったのではなく、それを身につけ、もちさったのは自分の衣装だったのではないか。  では、欣之助は女装できるだろうか。それについては欣之助を知っているひとびとは、いずれもできるという答えであった。現に欣之助は以前一度、ナオミの衣装を着て、ナオミの仲間の東亜美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》のモデルたちに、いっぱい食わせたことがあるという。  アケミのハンドバッグには、紅、おしろい、まゆずみなど、簡単な化粧道具のいっさいが入っていたから、顔をつくるには困らなかっただろう。ただ問題は頭だが、これもネッカチーフをかぶっていけば、夜の人目を欺くぐらい、なんでもなかったかもしれない。  さて、もし欣之助が女装して、花乃屋旅館から逃走したものとすれば、現在もなお女装して、どこかに潜伏しているのではないか。……こうして当局の捜査方針に、ここにひとつの新しい指標が与えられたのだが、この記事が大きく夕刊にのったその翌日、すなわち六月九日の昼過ぎのこと、S温泉の花乃屋旅館の本館へ、昼飯を食いにきた不思議な客があった。      七 「きみ、きみ……」  花乃屋旅館の本館の二階の|一《ひと》|間《ま》で昼食を食ってしまうと、不思議な男は|爪《つま》|楊《よう》|枝《じ》を使いながら、|卓袱《ち や ぶ》|台《だい》の上を片付けている女中に向かって、いくらかどもりぎみに声をかけた。 「はあ。……なにか御用でございますか」 「ふむ、ちょっとね。おかみさんにきいてもらいたいことがあるんだが……」 「おかみさんに……? はあ、あの、どういうことでございましょうか」  と、卓袱台の上にぬぐいをかけながら、女中は不思議そうに客の顔を見る。  年齢は三十五、六だろうか。セルの一重によれよれの|袴《はかま》をはいて、頭は雀の巣のようにもじゃもじゃしている。小柄で|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ男だが、にこにこ笑っているその顔に、妙にひとをひきつけるところがある。 「ひと月半ほどまえに、ここの別館で人殺があっただろう。そのときのことについておかみさんに、ちょっときいてみたいことがあるんだが……」 「まあ、それ、どういうんですの」  女中はびっくりしたように目をみはって、あらためて客の風采を見なおした。 「いやね、さるひとから依頼を受けて、あの事件をもう一度、調べなおしてみようと思っているんだ。それでおかみさんにきいてみたいというのはね、あの晩、すなわち四月二十二日の晩だね、八時か九時ごろにひとりでやってきて、離れへ泊まるか、泊まらないまでも寝ていった男はないか。……と、ただそれだけのことなんだが、君、ちょっとそのことを、おかみさんにきいてみてくれないか」  にこにこと落ち着きはらって、妙にひとなつこい調子である。 「はあ、あの……では、ちょっと……」  女中はどぎまぎしながら、お|膳《ぜん》の上を片付けると、そこそこに座敷を出ていったが、しばらくすると、おかみがお千代というあの晩の女中を連れて、あらたまった顔をしてやってきた。 「いらっしゃいまし」  と、ていねいな|挨《あい》|拶《さつ》をすると、 「わたくし、ここの家内でございますが、いまちょっと妙なおたずねがございましたそうで。……それ、どういうんでございましょうか」 「いやぁ、なにね」  と、不思議な客はおかみと女中にまじまじ顔を見つめられて、いささか照れたようにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「いま女中さんからきいてくれたことと思うが、さるかたから依頼を受けて、もう一度この事件を再調査してみようと思ってるんだがね」 「さるかたとおっしゃいますと?」 「山崎欣之助のご両親だけど」 「まあ」  とおかみは女中と顔を見合わせて、 「それじゃ、あの事件になにか御不審の点でも……」 「ああ、ちょっと|腑《ふ》に落ちないところがあるもんだから」  不思議な客はあいかわらずにこにこ笑っている。 「そういたしますと、あなたさまは私立探偵とでもおっしゃるような……」 「ええ、まあ、そうだ。あっはっは」 「お名前をおきかせくださいまし」 「金田一耕助というんだよ」  金田一耕助? そんな名前、きいたことがない。 「それで、御不審の点とおっしゃいますのは?」 「いや、それはここではいえないんだけどね。いま女中さんにきいてもらったことね、そのことをきかせてもらえばいいんだが……」  おかみは女中と顔を見合わせて、それからひと|膝《ひざ》を乗りだした。 「ええ、あの、いまお花から話をきいて、びっくりしたのでお千代ともよく相談し、宿帳など|手《た》|繰《ぐ》ってみたんですが、たしかにあの晩おひとりでいらして、離れのほうへお泊まりになっていらしたかたがございますの」 「ああ、そう」  金田一耕助はうれしそうににこにこしながら、 「しかし、それどういうの。ひとりで離れへ泊まったところでしかたがないじゃないか」 「いえ、それが、あとからお連れさんがいらっしゃるはずだったんですね。ところが終電車までお待ちになってもいらっしゃらなかったもんですから、帰るには帰れず、やむなくおひとりでひと晩お泊まりになって、翌朝の一番でお立ちになりましたの。そのかたをお見送りしてからまもなくのことなんですよ。三造が……うちの園丁なんですけど……その三造が人殺しだ、人殺しだとわめきながら駆けこんできたのは……」 「それでその客は何時ごろにやってきたの。欣之助君ねえ、ほら、南条アケミを殺したという。……あの男よりさきなの、あとなの」  おかみと女中はしばらく顔を見合わせて、ひそひそ相談していたが、こんどは女中が膝を乗りだして、 「あのかた……キンちゃんてかたのすぐあとでした。あたしが|牡《ぼ》|丹《たん》へお茶をもってって帰ってくると、そのひとがお帳場に立っていらして……それでおかみさんの申し付けで桐へ御案内いたしましたの」 「桐というのは牡丹と……?」 「ええ、すぐ隣ですの。隣といっても植え込みやなにかがございますから、ちょっと離れておりますけれど……」 「宿帳は……?」 「はい、つけてございます。四谷のほうのかたで、名前は篠岡達哉さん、お年齢は四十二とございます」  おかみが宿帳を開いて差し出すのを、耕助はちょっと見ただけで、 「これ、自分でつけたの?」 「いいえ、お客様のおっしゃるとおり、あたしが控えましたんですの」  と、お千代が答えた。 「ああ、そう、それじゃ大して役にも立たない。ところであんたがた、その顔をおぼえてやぁしないかね。ここに写真があるんだけど、このなかにその男がいないかしら?」  金田一耕助が取り出したのは六枚の写真である。いずれも四十前後の年輩の、いろんなタイプの男の写真だったが、おかみと女中は顔突き合わせて、順ぐりにそれを見ていくうちに、 「あ、おかみさん、このかたよ!」 「ああ、ほんとうに……。あなた、このかただと思いますけれど」  示された写真を見て、金田一耕助はいかにもうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしている。      八 「あっはっは、警部さん、警部さん、なにをそんなにむずかしい顔をしていらっしゃるんです。たまにゃあなた、ぼくのおつきあいをしてくだすってもいいでしょう」 「金田一さん」  と、等々力警部は怪しむように、金田一耕助の横顔を盗み見しながら、 「いったい、どういうんです。新宿の京王電車の乗り場まで、目立たぬ服装で来てくれという電話だもんだから、やってきたところが、こんな山のなかへ引っぱりこんで、いったいわたしをどこへ連れていくんです」 「いけませんよ。警部さん、そうあなたのように目的意識ばかり強くちゃ長生きはできませんぜ、たまにゃね、なにもかも忘れて郊外散歩……ね、いいじゃありませんか。気が晴ればれとするじゃありませんか。もうすぐ梅雨に入りますからね。そうしたら、こんな晴ればれとした気持ちで、散歩を楽しむなんてぇことぁできませんからね、あっはっは」  のんきそうにおしゃべりしながら、|飄々《ひょうひょう》と歩いていく金田一耕助の横顔を、警部はいくらかいまいましげな顔色で見つめている。警部には耕助の気持ちがさっぱりわからない。  きょう午前、金田一耕助から警視庁へ電話がかかってきて、午後二時ごろ京王電車の乗り場で待っているから、目立たぬ服装で来てほしいという。等々力警部はいままでたびたび難事件を解決するにあたって、この男の貴重な助力を得ている。だから警部はこの風采のあがらぬ小柄な男に、ひとかたならぬ敬意を払っているのである。  その耕助がわざわざ電話で呼び出すくらいだから、なにかちかごろ、頭を悩ましている事件について、ヒントを与えてくれるのであろうと思って、多忙な時間をさいて、約束の時間に約束の場所へ来てみると、耕助はさきに来ていて、切符を二枚買って待っていた。そして行く先も告げずに警部を電車へひっぱりこむと、やってきたのは|百《も》|草《ぐさ》|園《えん》。 「ちょっと散歩をしましょうや」  と、百草園から多摩聖跡へ抜ける山のなかを、理由も話さず耕助はのんきらしく警部をひっぱって歩いているのである。 「金田一さん、金田一さん」  と、警部はたまりかねて、 「ただの散歩なら御免こうむりたい。これでもわたしは忙しいんですからな。そうのんきにあんたのおつきあいはできかねる。それともなにかわたしに話が……?」  金田一耕助はためいきをついて、 「困ったひとですね。ねえ、警部さん、ぼくはまだひとりもんなんですぜ、寂しいんでさ。アベックで散歩をしようにも恋人もなしさ。しかたがないから警部さんで我慢をしようと誘い出したんじゃありませんか。たまにゃぼくのアベックのお相手くらいつとめてください。口説こうたぁいやぁしないから」  警部もさすがにぷっと吹きだして、 「こりゃまた、大変なアベックだ」 「大変でもなんでもいいです。ちょっとこっちの道をいきましょう」  金田一耕助の連れこむのは、ふつうの道がしだいに離れて、ほとんど道らしい道もない草のなかである。警部はいよいよ|眉《まゆ》をひそめて、 「金田一さん、いったい、どういう……?」 「いえさ、アベックというやつはとかく人目のないところをいきたがるもんでさ。ねえ警部さん、いまからふた月ほどまえの四月十五日、その日は日曜日だったんですが、やっぱり若いアベックがこの道をいったんでさぁ。ぼくと警部さんみたいに野暮なんじゃない。青春の血燃ゆるてぇやつですね。ところで四月十五日といや、S温泉でヌード・モデル殺しがあった日から数えて、ちょうど一週間まえですな」 「き、金田一さん」  突然、警部は草のなかで棒立ちになった。 「あなた、なにかあの事件について……」 「まあさ、おききなさいよ、警部さん」  耕助は|袴《はかま》の|裾《すそ》を雑草にひっかけ、先に立ってずんずん歩いていく、歩きながらしゃべっている。警部ももう|躊躇《ちゅうちょ》しなかった。深い驚きを胸に抱きながら、耕助に遅れぬようについていく警部にはまだS温泉の事件と、この百草園の山中と、どんな関係があるのかわからないのだけれど。 「つまりね、警部さん、四月十五日の日曜日に、百草園へやってきた若いアベック、いまわれわれの歩いてきた道へふざけながらかどうか知らないが、とにかく歩いているうちに、妙な気分になっちゃった。無理もありませんや。四月十五日といやぁ陽気もよしさね、なにしろ青春の血が燃えてるんですからね。そこでどこか人目のないところで、しんみり話をしようてぇわけで、道なきところを踏みわけて、とうとう格好の場所を見つけた。そこで|喃々喋々《なんなんちょうちょう》、よろしくやってるうちはよかったが、とうとう大変なことをやらかした」 「大変なこととは……?」 「気分を出しすぎて感きわまったあげくだか、それとも|嫉《しっ》|妬《と》か独占欲か、そこは当人にきいてみなきゃわかりませんが、女のほうが男を絞め殺したんでさあ」 「金田一さん!」  警部の声は驚きにふるえている。 「そ、そして、その男と女というのは……?」 「男はキンちゃんこと山崎欣之助、女は東亜美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》所属のヌード・モデル、ナオミって子でさぁね」  警部は脳天から|鉄《てつ》|串《ぐし》でもぶちこまれたように、ぎくりと手脚をふるわして、 「金田一さん、そ、それじゃ山崎欣之助は温泉の事件より一週間まえに殺されたというんですか」 「そうですよ、警部さん、だからいくら全国に手配りしたって、キンちゃん、つかまりっこありませんよ」 「それじゃ、……あの晩、花乃屋旅館へやってきた男は……?」 「ナオミでさぁね」 「ナ、ナ、ナオミ……?」 「そうですよ、警部さん、まあ、おききなさい。その場のはずみでキンちゃんを殺しちまったナオミは、死体を残して逃げだしたが、いつまでもキンちゃんが行方不明じゃ、自分に疑いがかかってくる。なにしろふたりで百草園へハイキングとしゃれこんだこたぁ、仲間がみんな知ってるんですからね。そこで、キンちゃんがもっとのちまで、生きてたってことにしなきゃならない。それにはさいわい、死体はまだ発見されていない。そこでキンちゃんの死体をはいで、自分でそれになりすまそうてぇわけですね。そして、キンちゃんが人殺しでもすりゃ、身をかくすのは当然だから、行方不明になったって、自分に疑いがかかる心配はない。それにはひとつ、日ごろ憎しと思うアケミのやつを片付けようと、まあ、恐ろしい女もあったもんだがキンちゃんを殺すきっかけも、アケミのことが口舌の種になったんかもしれませんね。そこでキンちゃんの名前をかたって、アケミに電話をかけてS温泉の花乃屋旅館へ呼び出したんです。あとは警部さんも御存じのとおりですが、ぼくはキンちゃんの帽子に血がついてたってことを新聞で読んだとき、すぐに犯人は女だなって思ったんですよ」 「それはまた、どうして……?」 「だって犯人が男なら、帽子をかぶらずに飛び出したっていいわけでさ。外套に血がついてたってかまわない。裏返しにたたんでかかえたってわかりゃしない。帽子だってポケットへ突っ込んでいけまさぁ。そのほうが女装するよりよっぽど危険が少ない。ところが犯人が女だとそうはいかない。外套はともかく帽子がなきゃ、すぐに女だとわかっちまう。まさか男のなりをしてネッカチーフをかぶっておくわけにゃいきませんからね。そこでやむなく、被害者の衣類をはいで、それを着て逃げ出したんでさ。つまり、男が女装して逃げたんじゃなく、女が男装してやってきて、帽子をふいにしたもんだから、もとの女にかえって逃げ出したんです」 「しかし、あの死体は男に犯されて……」 「いや、それはもう少し待ってください。それより帽子と外套に血がついてたってことから、もうひとつのことがわかりますね。寝床のなかで絞め殺されたんなら、帽子や外套に鼻血がかかるはずはない。おそらくアケミは四畳半へ一歩踏み込んだせつな、|襖《ふすま》の陰にかくれていた犯人に、うしろから絞められたんでしょう。そして、ひと絞め絞められ、まえへのめったひょうしに鼻血を出したが、犯人にとって運の悪いことに、そこに外套と帽子がぬぎすててあったんです。さて、そうなると、あの寝床の様子はあとでこさえたことになる。寝床にしてしかりとすれば、座敷のほうの差し向かいの一件だって、こさえたものでないとはいえない。あそこには湯殿というものがあって、流し口というやつがあるから、ビールの一本や二本なんなく飲んでくれますからね。そう考えてくると犯人が女であっても少しも不自然ではない。いや、女であったほうが、アケミの衣類いっさいの紛失について、より自然に説明できるんですね」 「そして……、そして、アケミの死体を犯したのは……?」 「ああ、それはね、あの晩、ナオミのあとを追うようにして、花乃屋旅館へやってきて、ひとりで離れへ泊まってった男があるんです。そいつがナオミをかばうために、あんないたずらをやったんですね。ナオミをあくまで男であったように思わせるために……。寝床の偽装も差し向かいの一件もたぶんそいつがやったんだろうと思います。ナオミにあれだけの度胸があったかどうか……」 「だれです、その男というのは……?」 「東亜美術倶楽部の責任者。マスターの鈴木良雄という男ですよ。あいつ、ナオミにほれてたんですね。ああ、警部さん、やっとつきましたよ。その穴のなかをのぞいてごらんなさい。ぼくはやっときのうそれを見つけたんです」  そこは雑木林におおわれた草深い谷間の傾斜で、なるほどここならば若いアベックがどんな痴態を演じても、人目につく心配はなかったし、また、ひと月以上も死体が発見されなくても、不思議はないと思われる。しかも、そこに浅いながらも、入口を雑草でおおわれた横穴があいているのである。  警部はそのなかをのぞいたが、すぐぎょっとしたように身をひいた。穴のなかに|猿《さる》|股《また》ひとつの男の死体が、もうあらかた、骨になって横たわっている。 「あれが、山崎欣之助の死体だというんですね」  警部は深い呼吸を吸って、ハンケチで額の汗をぬぐった。 「もうああなっては、はっきり断定はできませんが、幸いなことに欣之助の体には大きな特徴があるんですね。これは欣之助のお父さんの山崎博士からきいたんですが、欣之助は左足の第三指と第四指が、生まれたときから|癒着《ゆちゃく》してるんです。骨がですね、ところであの死体がそうなんです。だから、たぶん、もうまちがいはないと思うんですが……」  警部はしばらく無言のまま、そのまがまがしい死体を見つめていたが、突然、振り返って金田一耕助の手を握りしめた。 「金田一さん、ありがとう、あなたが注意してくださらなければ、われわれはいつまでも欣之助の幻を追って駆けずりまわっていたところでした」 「いやあ、警部さん、そのお礼では痛みいります。ぼくとしては山崎さん御夫婦のために、欣之助の|冤《えん》をそそいであげたかったんです。警部さん、この死体は一刻もはやく運び出したほうがいいでしょうから、だれか呼んでこられたら。……そのあいだ、ぼくがここで番をしていますから」 「ああ、そう、ではお願いします」  警部がそそくさと、草をわけて谷の傾斜面をのぼっていったあと、金田一耕助はそこにしゃがんで、のんきそうに煙草を吹かしていたが、ふいにうしろにひとの足音がきこえたので、もう警部が帰ってきたのかと、なにげなく振り返ったとたん、ゾーッと全身に|粟《あわ》立つような恐怖をおぼえた。  そこに立っているのは、東亜美術倶楽部の責任者、マスターの鈴木良雄である。鈴木は両手で石を差し上げて、いままさに振りおろそうとするところだった。憎悪に顔がひんまがって、両眼に殺気がほとばしっている。 「この野郎!」  |渾《こん》|身《しん》の力をこめて投げつけた石は、しかし、ほんのわずかねらいがはずれて、本能的に身をしずめた耕助の背後へ飛んだ。 「うぬ!」  鈴木が野獣のような声をあげ、耕助におどりかかろうとしたときである。突然、雑木林のなかからピストルの音がきこえた。 「止まれ! 撃つぞ!」  等々力警部の声である。  それをきくと鈴木は絶望的な|一《いち》|瞥《べつ》を耕助にくれ、|脱《だっ》|兎《と》のごとく草のなかを逃げていった。  二発、三発。……雑木林のなかにとどろくピストルの音を、金田一耕助は夢見ごこちにきいている。      九  新宿の近所にある安直なホテルの一室で、ナオミはベッドに身を横たえている。パジャマの上にガウンをはおって、廊下の足音に耳をすましているのである。  時計を見るともう九時である。八時半までには来るという約束だったのに、どうしたのかと、じりじりした思いで、何本めかの煙草に火をつけようとしているところへ、静かな足音が近づいて、ドアが開いたかと思うと、こわばった鈴木の顔があらわれた。 「マスター、どうしたのよ。ひどくじらせるじゃないのよう」  ナオミはいつもかん高い裏声を使っている。甘えるように、すねるように身をくねらせて、両手を差し出すナオミの顔に、鈴木は複雑な一瞥をくれると、無言のままドアの|鍵《かぎ》をまわし、それから上着をぬぎすてると、つかつかとベッドのそばへより、ナオミを抱いて、はげしく唇を吸った。 「ナオミ」  鈴木は女を抱いたまま、上から顔をのぞきこみ、 「おまえ、もう覚悟をしなきゃいけないよ」  しゃがれた男の声に、ナオミはぎょっと身をひいて、 「マスター、それ、なんのこと……?」 「死体が見つかったんだ。百草園の穴の中から……」  ナオミは突然、鈴木の胸をつきはなして、ベッドのうしろに身をひいた。 「な、なんのこと、それ……?」  思わず口走るナオミの地声は男のように太くしゃがれている。鈴木は血走った目で、恐怖におののくナオミの顔を見すえながら、 「ナオミ、悪いことはいわない。もう覚悟をきめたほうがいいよ。おれはなにもかも知ってたんだ。おまえがアケミを殺したことも……」  ナオミはまた、|瞳《ひとみ》もさけんばかりに目をみはったが、 「うそよ! うそよ! そんなこと! あたし、なにも知らない!」  太い地声がきれぎれに出る。 「あっはっは」  鈴木は|咽喉《のど》の奥で低く笑って、 「もういけないよ。ナオミ、おれはな、あの晩、男装してるおまえのあとをつけて、S温泉までいったんだ。そして、おまえの入った離れの隣の座敷をとって、おまえがなにをやらかそうとするのか見ていたんだ。やがて、アケミがやってきた。女中が立ち去るとまもなく、|牡《ぼ》|丹《たん》の家からうめき声がきこえてきた。それからまもなく、おまえがアケミの衣装まで着て、裏木戸から逃げていくのを見送って、おれは牡丹の家へ入っていった、そして、アケミの死体を見つけたんだ」 「うそよ! うそよ! うそよ! そんなことうそよ!」  ナオミはいよいよベッドのむこうに身をひいて、 「ああ、わかったわ。それじゃマスターがアケミちゃんを殺したのね。そして、その罪をあたしになすりつけようというのね。そうよ、そうよ、あたしはなにも知らない。知らない。知らないのよう!」 「ナオミ!」  鈴木はあわれむようにナオミの顔を見まもりながら、 「おれがアケミの死体にどんなことをしたか、おまえも知ってるだろう。あれはおまえをかばいたい一心でやったことなんだ。おまえは悪い女だけれど、おれはおまえにほれてるんだ」 「ほれてるなら、なぜそんなこというの。あたしに罪をなすりつけるようなことをなぜいうの。よしんばあたしのやったことだとしても、なぜ男らしく罪を引き受けてくれないの」 「それがもういけないんだ。金田一耕助って男……知ってるだろう、おまえのとこへも来たというじゃないか。あいつがなにもかも見抜いてるんだ。ナオミ、おまえ、もう生きちゃおれないよ」 「いや、いや、なぜそんなこわいこというの。あんたも男じゃない? なぜあたしを助けるくふうをしてくれないの」 「もうだめだよ、もういけない。おまえを助けるくふうはもうこれしかない」  鈴木はやにわに|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして、恐怖のために真っ白になり、ふるえているナオミの体を抱きすくめ、いま一度はげしく唇を吸ったのち、両手でナオミの首をつかんだ。 「あれ! マスター、な、なにを……」  ナオミははげしく男の厚い胸をたたいたが、しかし、しっかりナオミの首をつかんだ鈴木の指先には、しだいに力がこめられていく……。    |蝋《ろう》美人     異様な実験  法医学界の名物男、天才とよぶひともある反面、山師とののしる学者もすくなくないといわれる問題の人物|畔柳《くろやなぎ》貞三郎博士が、身元不詳の白骨死体に肉づけをして、ありし日の姿を再現しようというだいたんな試みは、わが国の法医学界ならびにジャーナリズムに大きな話題を投げかけた。  外国ではそういう例がないでもない。犯罪捜査上の一手段として、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の肉づけという冒険的な実験が、とりあげられた例があることはある。  被害者の身元が判明しなくては、犯罪捜査も困難である。  そこで、頭蓋骨に|弾《だん》|痕《こん》のある他殺とおぼしい身元不詳の白骨死体の頭蓋骨に肉づけをして、首尾よくありし日の被害者の面影、すなわち顔かたちを再現し、それからひいて犯人逮捕に成功した例が、外国にないことはない。  しかし、それには非常に大きな危険がともなうことを覚悟しなければならない。  うっかりほかの人間に似てきて、それからひいて思わぬ迷惑を、|無《む》|辜《こ》の人物におよぼさないともかぎらないからだ。  畔柳博士がその冒険をあえてしようというのだから、センセーションをまきおこしたのもむりはない。  もっとも、さすがに博士も、まえに述べたような危険をおもんばかったのか、かれが実験材料としてとりあげたのは、あきらかに自殺と信じられているわかい婦人の死体だった。  その死体というのは、去年の夏、軽井沢の密林のなかで発見されたものだが、これがのちになって大きな問題を投げかけることになったのだから、ここに少しくわしく、この死体発見の|顛《てん》|末《まつ》を述べておこう。  この死体を最初に発見したのは、佐藤亀吉といって、軽井沢でも、変わりものと評判のたかい初老のひとりものだった。  戦争でひとり息子をうしない、つづいて長年患いついていた女房に死なれて以来、亀吉は変わりものとして、軽井沢土着のひとびととも、ほとんどつきあいらしいつきあいをしていなかった。つきあいがないばかりか、何を考えているのかわからぬ男と、ひとびとから恐れられ、避けられてもいた。  亀吉は死体が発見された密林のほとりに小屋を建て、話し相手もなく、さびしいやもめ暮らしをしていた。  かれのただひとつの楽しみは、冬になると猟をすることで、それと、季節季節によってちがういろいろな労役が、亀吉の活計のみちになっているらしかった。  問題の死体は、去年の夏のある朝、密林のなかへ|薪《たきぎ》をとりに入った、その亀吉によって発見されたものなのである。  しかも、発見されたときの死体の状態というのが、一糸まとわぬ全裸だったので、すわこそ他殺と捜査陣を色めきたたせ、発見者なる佐藤亀吉に強い疑惑の目がむけられたのもむりはない。  しかし、その後の捜査によって付近の草むらのなかから、簡単ながらも遺書らしいものが発見されたり、また、その他周囲の事情から割り出して、だれか最初に発見した人物が、自殺死体の着衣その他をはぎとっていったものだろうと判断されるにいたった。  佐藤亀吉の報告によって、係官が駆けつけていったときの死体の状態は、それこそ、目もあてられぬくらい酸鼻をきわめたものだったという。  死体は死後およそ三か月くらい経過していたらしく、むごたらしく腐敗しているうえに、野獣の|餌《えさ》になっていたとみえ、あちこち無残にかみ裂かれ、むろん、生前の面影など、さぐりあてるよすがもなかった。  ちょうどそのころ軽井沢に滞在中だったのが畔柳博士で、警察の懇請によって博士もこの死体の検視ならびに解剖に立ち合ったが、その結果推定されたのは、だいたいつぎのような事実である。 [#ここから1字下げ] 一、死後およそ三か月。したがって死亡の時日は五月下旬から六月上旬まで。 一、推定年齢二十六、七歳。 一、肉づきよく栄養可良。 一、色白にて漆黒の断髪。 一、歯の治療うけた|痕《こん》|跡《せき》全然なし。 一、内臓にもこれという疾病を認められず。 [#ここで字下げ終わり]  だいたい、以上のとおりだが、なお、死因はある毒物の中毒にあり、胃中より発見されたその毒物の量ならびに性質からして、服毒後数瞬にして命を絶ったことが推定される。  そういう事実や、また周囲の情勢から判断して、他殺死体をほかの場所から、犯人がここまで運んできたとは思われず、現に胃中より抽出された毒物とおなじ薬品の入った|小《こ》|瓶《びん》が、付近の草むらから発見されている。  なお、発見された遺書というのは、付近の|白《しら》|樺《かば》の根元をすこしけずって、 「ワタシハシニマス、サヨウナラ」  と、辛うじて読めるたどたどしさで彫りつけてあり、署名らしいものはなかった。  だから、結局想像されるのは、世をはかなんだ二十六、七のわかい女が、信州のこの高原の密林へたどりつき、初夏の草むらのなかへ身をよこたえ、白樺の根元に簡単な遺書を彫りつけたのち、用意の毒薬をあおって、みずからの命を絶ったのであろうということである。  この死体についてはむろんあちこちから照会があった。  該当年齢性別の家出人や|失《しっ》|踪《そう》者をもつ家庭から、父兄が駆けつけてきたりした。しかし、なにぶんにも着衣持ち物いっさいをはぎとられた、死後三か月の腐乱死体とあっては、かりにこの死体の近親者が駆けつけていたとしても、|識別《み わ け》がつかなかったのもむりはない。  ただ、ここで問題になるのは、だれがこの不幸な女性の着衣その他をはぎとっていったかということである。それに関してもういちど、佐藤亀吉に疑惑の目がむけられた。  亀吉はもっとはやくから、この死体に気がついていたのではないか。そして、着衣その他いっさいをはぎとったのち、死体の腐乱するのを待って、あらためて警察へ報告したのではないか……。  そういう疑惑をもたれたのも、佐藤亀吉の日ごろの性行によるところが大きかった。死人の着衣をはぐということは、常人のよくなすところではない。しかし、亀吉ならばいかにもそれくらいのことを、やりかねまじき人間とみなされたわけである。  そこで亀吉はかなりきびしく警察当局によって追及された。  亀吉はしかし、あくまでも知らぬ存ぜぬの一点張りで押しとおしたし、また、かれの小屋を捜査した結果からも、なんの収穫も得られなかった。亀吉が女の持ち物らしいものを他へ転売したという証拠も得られなかった。  こうして、なにか臭い人物という印象は受けながらも、結局証拠不十分で、亀吉は逮捕されるにいたらなかったのである。  ちなみに女の死体には、死後犯された形跡はなかったそうである。  こうして、結局、この不幸な女性は身元不詳の変死人として、|荼《だ》|毘《び》に付されることになったのだが、そのときになって畔柳博士が、かねて抱いていた頭蓋骨の肉づけの実験材料として、この死体をつかってみようと思いついたのである。  このことがひとたび世につたわると、一大センセーションをまきおこしたのもむりはない。  必要な法的手続きをとってその死体をひきとった畔柳博士が、死体に適当な処置をほどこし、大きな寝棺につめて、自動車で軽井沢から東京麻布にある自分の実験室へ運びこんだのは、九月のはじめのことだったが、その日、博士のもとへどっとばかりに報道陣がおしかけていったことはいうまでもない。  それらの新聞記者の無遠慮で好奇的な質問攻めにたいして、畔柳博士はつぎのように答えている。 「むろん、この実験にたいしてわたしは十二分の確信をもっている。頭蓋骨に肉づけをして生前の面影を再現するということは、素人がきくと一見とっぴのように思えるだろうが、解剖学上からいって、十分根拠のある問題なのだ。むろんそれには綿密な計算と周到な用意を必要とするが、それにも自信をもっている。外国では実際に犯罪捜査に応用されているし、じつをいうとわたしもいままで二度試みて、だいたい成功したと思っている、見たまえ、この四枚の写真を……」  と、そこで博士がとりだしたのは、顔だけ撮影した四枚の写真だった。そのうちの二枚は実際の生きた男女の写真だったが、あとの二枚はあきらかに|蝋《ろう》みたいなものでつくった人形の首の男と女であった。 「どうだ、こちらの二枚が頭蓋骨に肉づけされた顔だが、こちらの二枚の写真と似ているとは思わないかね」  じっさいそれは|瓜《うり》ふたつとまではいかないが、似ていることはたしかに似ていた。再生された顔から生前の面影をしのぶには十分だった。 「先生、これは生前の写真を参考として、肉づけされたんじゃないんですか」  と、いうぶしつけな記者の質問にたいして、畔柳博士は持ち前の大きな目玉をくりくりさせながら、 「ばかなことをいっちゃいかん。きみたちの試験じゃあるまいし、カンニングなんかしていて勉強のたしになるもんか。だけど、ほんとのことをいうとな」  と、そこで博士はいたずら小僧のように首をすくめて、 「その男のほう……。それをはじめに肉づけしてみたんだが、顔ができあがって、さて頭髪を植えつける段になって、生えぎわに自信がなかったので、そのときはちょっとカンニングをやらかしたんだ。写真を参考にしてな。わっはっは!」  こういう博士の解放的な態度を、|磊《らい》|落《らく》とみるひともある半面、そこが食わせものだと評するひともある。 「ところがこんど軽井沢からもちかえった実験材料だが、こいつ腐乱していたとはいえ、生前の肉づきや髪の生えぎわもわかっている。だから、こんどは額ばかりじゃなく、全身を復原してみようと思っている。それにゃおれひとりじゃいささか手にあまるので、ひとり芸術家の協力を仰ごうと思ってるんだ」  芸術家とはだれかの質問にたいして、 「きみたちは知らんかね。瓜生朝二というまだわかいが、なかなか腕のたしかな、デッサンのしっかりした彫刻家だ。この夏、軽井沢で知り合ったんだがね。あのひとが協力してくれるというので、ひとつ助手になってもらって、全身を復原してみるつもりだ。材料は粘土、あるいはパラフィンを使用することになるだろう」  いつごろ完成するかという記者の質問にたいしては、 「そうさな、半年はみておかねばね。芸術家がモデルをまえに粘土をこねるのとちがって、こっちは骨格の各部分を綿密に計算しながらやっていく仕事だからね。まあ、完成は来年の春になるだろうよ。できあがったらどこかで展示会をやろう」  畔柳博士のこの試みを、法医学者として当然の良心的な実験とみるひともあったが、なかにはヤマ師的な人気取りにすぎないと評するひともあった。  畔柳博士は気の毒なひとで、壮時愛妻をうしなって以来、恵美子さんという令嬢ひとりをたよりに孤独な生活にたえてきた。令嬢の恵美子さんは、父にたいして献身的な愛情をささげ、婚期を逸するのも意とせず、父の忠実な助手をつとめてきたが、一昨年の秋、不幸な交通事故で突如世を去った。  それ以来、博士の生活の調子が大きく狂ってきたらしく、それかあらぬか去年の春、法医学上の鑑定において致命的なミスをやらかした。  こんどの博士の計画は、その不名誉を|挽《ばん》|回《かい》するための場あたりの人気取りで、新聞記者に示したふたつの首の写真なども、学問的に肉づけされたものなのか、それとも写真をモデルとしてでっちあげられたものなのか、わかったもんじゃないと酷評するひとすらある。  その後の新聞の報道によると、博士はわかき彫刻家、瓜生朝二とふたりきりで実験室に閉じ込もり、ぜったいに肉づけの場へ余人をよせつけぬという話である。  瓜生朝二は小田急沿線経堂にアトリエをもつ、かなり富裕な芸術家だが、この実験にひどく興味をもっているらしく、毎日のように麻布にある畔柳博士の邸宅へかよって、午後のひとときを閉めきった実験室のなかで、博士とともに過ごすのを日課としていた。  かれはひとにきかれても、自分はただ先生の命令で、パラフィンをこねているだけのことであると、多くを語るのを避けている。  閉めきった実験室のなかで、手術台によこたわった白骨にむかって、黙々と肉づけにいそしむ手術着の学者と芸術家……それを想像すると、|敬《けい》|虔《けん》というよりも、なにかしらゾーッとするような薄気味悪い鬼気を感ずるではないか。  金田一耕助もこの実験に非常な興味と好奇心をよせていた。  金田一耕助は二、三度法医学上の意見をもとめるために、畔柳博士にあったことがある。耕助の見解によると畔柳博士はけっしてヤマ師というのではなかった。むしろ天才はだな学者と思われたが、天才であるがために論理にどこか飛躍したところがあり、そこが他から誤解を招くもととなっており、またその飛躍ぶりに多分の危険性があることも否定できなかった。  それだけに金田一耕助も、こんどの実験をはらはらするようなおもいで見まもっていたのだが、年改まって陽春三月、ついに博士の実験は完了した。すなわち白骨の肉づけは完成したのである。  そして、銀座にある三星堂百貨店の七階大ホールで開催された防犯展覧会の会場に、この試作品が出陳されるにおよんで、わっと世間を沸騰させるような事態がもちあがったのである。     |妖《よう》|花《か》マリ  戦後、警察や警視庁の後援で、防犯展覧会というのがよく各地の新聞社や百貨店の共同主催で行なわれる。三星堂百貨店の防犯展覧会は、三月五日から一週間にわたって開催される予定になっていた。  名は防犯とうたっていても、実際は戦後の刺激に|麻《ま》|痺《ひ》した都会人のグロ趣味に、迎合しようという傾向が相当つよく、血みどろの殺人現場だの、鉄道線路のかたわらに生首がころがっているというような、なまなましい写真がべたべたはってあったり、血に染まった凶器が陳列してあったり、あまり気味のよい展覧会とはいえないが、畔柳博士の実験作品のようなしろものを展示するには、おあつらえむきの雰囲気であったといえるかもしれない。  畔柳博士も芝居気たっぷりである。三月五日の朝までだれにもその作品を見せなかった。それでいて、たまたま新聞記者が来訪すると、 「頭蓋骨の肉づけが進行し、死者の|容《よう》|貌《ぼう》が復原していくにしたがって、わたしたち、わたしも瓜生君もしだいに驚きを大きくしていった。わたしたちはいま非常なおどろきと恐怖にとらえられている。瓜生君のごときはいささか神経衰弱ぎみになっているくらいだ」  と、ゼスチュアたっぷりに思わせぶりな|口《こう》|吻《ふん》をもらしたり、 「ひょっとすると、わたしのこの新しい試作品が、未解決のまま|膠着《こうちゃく》しているある|謎《なぞ》の殺人事件に、ひとつの暗示をあたえるのではないかと思う」  と、さらにききての好奇心をあおるようなことばをつけくわえたりした。  だから、三月五日の防犯展覧会の初日の幕が切っておとされる午前九時に先だつこと半時間。八時半から催された警察関係ならびに新聞記者招待の展示会の会場には、息づまるような期待と緊張の気がみなぎっていた。  畔柳博士が思わせぶりにもらしたことばから、そこに居合わせたひとびとの脳裏には、いわず語らずのうちに、ある婦人の映像がえがかれていたのだ。  それは昨年の春もちあがったある殺人事件の容疑者と目されながら、殺人現場から逃走したまま、いまだに|杳《よう》として消息のつかめぬ、あるノートリアスな(悪名高き)女性の像である。  金田一耕助も招待されてその席にいた。  例によってくちゃくちゃに形のくずれたお|釜《かま》帽の下から、もじゃもじゃと、|蓬《ほう》|髪《はつ》がはみだして、|襟《えり》のすりきれた二重まわしのまえがはだけて、羽織も|袴《はかま》も相当くたびれている。いや、くたびれているのは羽織や袴だけではなくて、金田一耕助そのひとも、相当くたびれた顔色だった。  金田一耕助はなんとなく浮かぬ顔色で、そこいらをいきつもどりつしながら、問題の肉づけされた像の除幕式を待っているのだった。胸に一種の|危《き》|懼《く》と不安を抱きながら……。  そこは展示会の会場のなかでも、いちばん場所のよいところで、目のまえに白布におおわれた手ごろの壇がある。  いましもその壇の上に、頭からすっぽり黒い布でつつまれた畔柳博士の作品が、三人の手でかつぎあげられて、博士の指導でほどよいところへすえつけられているところだった。  けさの博士はさすがに緊張しているのか、日ごろの与太や冗談もとばさず、するどい声で店員たちにあれこれと指図をしている。  畔柳博士は五尺八寸くらいの頑健な肉体の所有者である。頭髪こそ白いものをまじえているが、膚の色など壮者のようにみずみずしく、堅ぶとりをした肉づきや、キビキビとした言語動作には闘志があふれている。色の浅黒い、目の大きなその容貌から受ける印象は、野性と知性が奇妙なバランスをたもっているという感じである。  畔柳博士は知性の人であると同時にユーモリストだった。だがそれ以上に猛烈なファイターだった。そのファイトが度をすごして燃えあがるとき、博士は危険な人物になる。いままでそのファイトのいきすぎに、たくみにブレーキをかけていたのが令嬢の恵美子さんだった。その恵美子さんがなくなったいま、博士は警戒すべき人物とみなされてよいのである。  金田一耕助が憂慮しているのもその点なのだ。  壇の下には三十前後の青年が、なにかしら落ち着きのない格好で立っている。これがおそらく博士の協力者瓜生朝二なのだろう。いかにも育ちのよさそうな色白の好男子である。純白のワイシャツに黒い背広を身だしなみよく着て、細い黒の|紐《ひも》ネクタイを結んでいるのが|粋《いき》である。  しかし、あの落ち着きのないようすはどういうのだろう。顔面を青白くこわばらせ、しきりに頭髪をなでつけている、あのナーバスな心の動揺はなにを意味するのか。  金田一耕助はなにげなく、左手で頭髪をなでつけている瓜生朝二の指を見ていたが、そのうちにふと妙なことに気がついた。はじめのうち気取って小指をうちへまげているのだとばかり思っていたが、よく見ると第一関節から上がないのである。  そう気がつくと金田一耕助は、見てならぬものを見たような気がして、あわてて視線をほかへそらせた。  やがて、黒い布につつまれた畔柳博士の作品は、白い壇の上のほどよい位置にすえられた。女の像は|椅《い》|子《す》に腰をおろしているらしく、高さはそれほどではない。 「畔柳先生、どうです。そろそろ除幕式をしてくだすっちゃ……」  畔柳博士は壇のそばに立って、さっきからしきりに懐中時計をにらみながら、会場の入口のほうへ目をやっている。そのそばから、たまりかねたように声をかけたのは、警視庁捜査一課の等々力警部である。  等々力警部はきょうの展示会に、非常な興味と興奮を感じているのだ。  もしこの黒い布につつまれている女の像にして、警部がいま予想している人物だとすると、過去一年にわたる警視庁の捜査方針は、根本からくつがえることになるかもしれない。 「いやあ、もう三、四人来ることになってるんですがね」  畔柳博士は懐中時計とホールの入口を見くらべている。 「来るってだれが……?」 「いや、来てみればわかることだが……」  にやりと笑う畔柳博士の顔には、どこか邪悪な影がある。 「先生、先生、そうじらさずにはやく除幕式をしてくださいよ。われわれ、夕刊の第一版にまにあわせたいんだから」  と、そうせきたてるのはカメラマンである。  黒い布につつまれた女の像をとりまいて、カメラマンがずらりと砲列をしいている。 「あっはっは、よしよし、あんまりじらせるのも思わせぶりで|気《き》|障《ざ》だな。それじゃ瓜生君、きみも手つだってくれたまえ」 「はっ」  と、瓜生朝二はちょっと二の足をふんだ。  しかし、博士がかまわず壇のうしろについている階段をのぼっていくので、しかたなしにかれもそのあとにつづいた。  壇の上に立った畔柳博士は、大きな特徴のある目で、下に居ならぶ警察官や報道陣の連中を、ギロリと見わたし、ちょっと気取った見得をきって、 「この除幕式を行なうにあたって、あらかじめお断わりしておきますが、われわれ……すなわち、ここにいる瓜生朝二君と不肖わたしが、この実験にたずさわったについては、あくまでも科学的に、純粋解剖学的見地から手をくだしたのであります。そこには|毫《ごう》|末《まつ》の先入観もなかった。だいいち、先入観の割りこむ余地はなかった。われわれはあの白骨がかつていかなる容貌の持ち主であったか、腐乱したその面貌以外に知ろうはずはなかったのでありますから。したがって、この肉づけはあくまで科学的に、数学的に割りだした結果にたよるよりほかはなかったのであります。それにもかかわらず……」  と、ここにおいてゼスチャアたっぷりに畔柳博士は、眼下にいる一同を見わたすと、 「われわれはこの頭蓋骨の肉づけが進行していくにしたがって、非常なおどろきとおそれを抱きはじめたのであります。と、いうのは八、九分どおり肉づけが進行したとき、われわれはそこにありありとある有名な女性との相似に気がつきはじめたからであります。そのときのわれわれの恐怖と混乱は、いささか誇張をゆるしていただくならば、ちょっと名状しがたいものがあったのであります。ここにいる瓜生君のごときは、たぶんに神経衰弱ぎみになったくらいであります。それ以来、われわれの仕事は大きな困難にぶつかりました。なんとなれば、われわれはこの婦人を知っていた。しかもわれわれがその婦人の写真を手に入れようと思えば、いくらでも手に入れることができたからであります。わたしたちはその婦人の写真と比較してみたいという誘惑を、しりぞけるのに苦労しなければなりませんでした。しかし、ちかって断言いたしますが、われわれはこの仕事に着手して以来、いちどもその婦人の写真を見たことはありませんでした。むしろその婦人の面影をできるだけ、記憶の底から追放し、あくまでも科学的に、解剖学的に肉づけを完了したのがこの作品であります」  と、そこで畔柳博士はもういちど、大きく光る特徴のある目で、ギロリと一同を見わたすと、 「それじゃ、瓜生君」  と、かたわらにひかえている瓜生朝二をふりかえった。 「はあ……」  と、瓜生朝二はごくりと息をのみこんだ。  それから博士に手つだって、黒い布の上からかけてある綱を解いていった。瓜生朝二のながい指はあきらかにふるえていたようだ。  やがて綱は解かれた。瓜生朝二は|蒼《そう》|白《はく》の顔面を緊張させて、一歩あとにしりぞいた。  畔柳博士はちょっと呼吸を吸いこんだのち、まるで手品使いのような指さばきで、おもむろに黒い布をはぎとっていく。  そして、その黒い布の下から、椅子に腰をおろした女の像が全身をあらわしたとき、展示会の会場には一瞬|潮《しお》|騒《さい》のようなどよめきが起こったのである。  等々力警部はいまにもとびだしそうな目玉をして、汗ばんだ両手を握りしめた。金田一耕助はおもわずごくりと|生《なま》|唾《つば》をのむ。  新聞記者たちのあいだでは、それぞれするどい、短い、しかし興奮にみちたひそひそ話がささやきかわされた。そして、だれの目もいちように、ギラギラと異様な熱気をおびて、そこにあらわれた|蝋《ろう》美人にそそがれているのだ。  蝋で肉づけされたその女は、まるで生きているように、偽眼の|瞳《ひとみ》でほほえんでいる。ゆったりと胸のひらいた黒ビロードのドレスを着て、うつくしい脚線美を見せた両のかがとをきっちりそろえ、両手を椅子の腕木において、うつくしい顔はきっと正面をきっている。  金田一耕助はその姿勢から、なんとなく電気椅子に座らせられた死刑囚を連想して、おもわず、ゾクリと体をふるわせた。  その女……。  いくらか鼻のうわむきかげんの丸ぽちゃで、ゆたかな肉体にめぐまれたその美人を、そこにいる連中はみんなだれだか知っている。  それはかつて和製マリリン・モンローとさわがれた銀幕の|妖《よう》|花《か》立花マリ!  のちに結婚して作家伊沢信造の妻となり、しかも昨年の春、|良人《お っ と》を刺殺して逃亡中と信じられている問題の女性ではないか。  いまやいのちなき蝋人形と化した昔日の妖花立花マリは、椅子の腕木に両手をおき、しゃんと姿勢をただして、なにかの審判を待つかのように、きっと前方を見すえている。  かつて銀幕の上から幾万、幾百万の男子を悩殺したその瞳も、いまではつめたい偽眼となり、なんの表情もしめしていない。  しかし、一種のあどけなさをたたえたふくよかな|頬《ほお》の曲線といい、ゆたかな乳房の隆起といい、いまもって肉の香りと妖気を発散させるかとうたがわれる。  一瞬、一同は気をのまれたように、この魂なき蝋製美人を見まもっていたが、つぎの瞬間、|蜂《はち》の巣をつついたようなさわぎになった。  カメラマンはこの蝋美人にむかって、シャッターの砲列をしき、新聞記者は畔柳博士と瓜生朝二をとりまいて質問の雨をふらせる。  だが、そのときだ。 「あっ、ちょっと——」  と、博士が意味ありげに片手をあげて、|顎《あご》でホールの入口のほうを示した。その身振りにつりこまれて、一同はふとそのほうをふりかえった。  畔柳博士がしめしたのは、そのとき、ホールの入口からしずしずとなかへ入ってきた四人の男女のすがたである。だれにもすぐ気がついたことなのだが、この四人の男女の群像には、どこか威厳にみちたところがあった。  そのひとりは霜ふりの頭髪をむぞうさにたばねた、いかつい顔と体つきをした老婦人であった。その強い視線ときっとむすんだ唇は、意志の権化とでもいいたいほどである。おそれを知らぬ、高慢ちきな表情で、老婦人はあたりを|睥《へい》|睨《げい》しながら、しんずしんずと歩みをはこんでくる。姿勢のいい、がっちりとした体をくるんだ黒い毛皮の|外《がい》|套《とう》は、値段からいってもまず第一級品である。  その老婦人のかげにかくれるようにして歩いてくるのは、老婦人とおなじように、黒いドレスの上に黒い毛皮のオーバーを着て、黒いレースの手袋をはめた二十二、三のわかい女である。細面の、いかにも教養のありそうな、いわば典雅な美人型に属する女だが、あきらかに老婦人の娘とみえて、気位のたかそうなところがよく似ている。  娘が見合いをするとき母親がついていってはならぬという話がある。なぜなればこの女もいまにこのおふくろさんみたいになるんだなと、あいての幻滅をさそうからだそうな。  いま威厳をつくろって、しんずしんずとホールのなかへ入ってくるこの母と娘にも、おなじような未来の暗示が感得される。  この娘もいまはうつくしい。だが、やがてはその母親とおなじように、味もそっけもない、高慢ちきな意志の権化になりそうな危険性は十分考えられるのである。  しかし、いまはわかいだけに、さすがにその瞳の色やけばだった膚のつやに、おびえの色がかくしきれなかった。  さて、あとのふたりは男である。  ふたりとも二十六、七、ひとりはこれまた老婦人の息子とみえて、高慢ちきなところが共通している。身長五尺六寸くらい、色が浅黒くて、ひとをひとともおもわぬ思いあがった表情が、ひたいにつめたくさえている。  あとのひとりは色白の、ぽっちゃりとした肉づきで、いかにもお坊っちゃんらしい、育ちとひとのよさそうな青年である。  この四人を会場にむかえて、そこに居合わせた連中はおもわずさっと緊張した。かれらのほとんどがこの四人を知っているのである。  老婦人は去年殺害された作家の伊沢信造の母の加寿子である。伊沢加寿子はあの有名な伊沢女子学園の経営者であると同時に校長でもある。  あとの三人は加寿子の次男の徹郎とその妹の早苗、それから早苗の婚約者、雄島隆介である。  加寿子はホールへ入ってきたときから、おそれを知らぬまなざしで、壇上の蝋美人の顔を凝視しつづけてきたが、やがて壇のそばまで来ると、ぴたりと脚をとめて、ぐるりとつめたい目であたりを見まわした。 「失礼でございますけれど、畔柳博士とおっしゃるかたはどなたでございましょうか」  と、ことばつきはていねいだが、どこか挑戦するようなおもむきがある。 「ああ、奥さん、畔柳貞三郎というのはわたしだがね」  ひとをくったような畔柳博士の顔を、加寿子は鋼鉄のようにつめたくするどい目でまじまじと見すえながら、 「どういうわけで先生は、わたしどもをここへ御招待くだすったのでございましょうか」  と、きめつけるような切り口上である。  畔柳博士はそれをきくと、ホールのなかにひびきわたるようなどくどくしい爆笑をあげた。 「どういういうわけとはけしからん。壇上を見ればおわかりのこととおもうが。……おたくの御長男の花嫁御寮のなれの果てと、対面させてあげようと思うてな。わっはっは」  高慢ちきな伊沢加寿子の鼻っぱしらにむかって、畔柳博士はふたたびどくどくしい高笑いを爆発させた。  金田一耕助はふかい興味をもって、この女傑と怪物の対決を見まもっている。     名門の悲劇  その日の夕刊の社会面は、ほとんどこの記事でうずめつくされた感じであった。そこには再生された立花マリの写真と、伊沢一家のひとびとの写真が大きくかかげられていた。  |巷《ちまた》ではまたよるとさわるとこのうわさでもちきりだった。  白骨の肉づけというそのこと自体がめずらしいうえに、再生された人物というのが、ひともあろうに、かつては銀幕の妖花とさわがれ、いまでは良人ごろしの容疑者として、全国に指名手配中の立花マリだというのだから、世間に一大センセーションをまきおこしたのもむりはない。  おかげでもうけものをしたのは三星堂百貨店だった。  夕刊にこの記事がでた翌日からは、この猟奇的な蝋美人を見ようという客が、デパートのまわりをとりまいて、長蛇の列をつくるというさわぎだった。  当然の結果として、一年まえにおこった伊沢信造殺害事件が、またあらためて新聞にとりあげられ、ひとびとの論議の焦点としてむしかえされたことはいうまでもない。  それではここに、伊沢信造殺害事件について述べるまえに、伊沢家なるものの存在からのべておこう。  伊沢家は日本の政界ならびに教育界の名門である。  伊沢加寿子の母伊沢兼子は、明治から大正へかけての女傑のひとりだった。彼女が伊沢女子学園を創立したのは明治二十五年である。  伊沢女子学園は三田の高輪にあり、むかしは高等女学校から女子専門学校までを包含していたが、戦後中学から大学までをふくめた、東京における女子教育界の名門学園である。  いっぽう兼子の|良人《お っ と》、すなわち加寿子の父伊沢達人は役人から転じて政界に入り、大臣にはなれなかったが、内閣書記官長を二度つとめている。長生きすれば当然大臣のうつわだったといわれながら、若死にしたことが惜しまれている。  達人兼子の夫婦には女の子がひとりしかなかった。  それが加寿子である。  当然、加寿子の婿えらびは慎重をきわめた。政治家としての器量があると同時に、女子教育にも興味をもつ人物というのが第一条件だった。  いまでこそ意志の力ばかりがめだつ鋼鉄のような女になってしまったが、わかいころの加寿子は|才《さい》|媛《えん》のほまれたかく、その|美《び》|貌《ぼう》と才気はわかい男の学生たちのあいだで|憧《どう》|憬《けい》の的になっていた。  当然、そこには多くの自選他選の候補者があらわれたが、そのなかからえらばれたのが、信造たち兄弟の父安彦である。  安彦は姓を三門といい、有名な三門財閥の一門である。一説によると、兼子がかれにほれこんだのは、安彦自身の価値よりも、背後にひかえている三門財閥の資力に魅惑を感じたのだといわれたが、かならずしもそれがあたっていない証拠に、安彦も戦後運輸大臣をいちどつとめて死んでいる。  この安彦と加寿子の夫婦の間に子どもが三人あった。上からいって信造、徹郎、早苗の順である。  信造は秀才だったが|蒲柳《ほりゅう》の質で、大学を中退すると文学にはしった。そして、異常にするどい感覚と清新な筆致とによって、たちまち文壇の|寵児《ちょうじ》になった。  それに毛並みのよさも手つだって、かれの作品には一種の気品があり、また駆けだしの文学青年とちがって、取材の範囲がひろかった。つまり社会の上流と目される世界をかれは知っていたのである。そして、それが多くの読者を獲得する大きな原因のひとつになっていた。  しかし、このことはかならずしも母加寿子のよろこぶところとはならなかった。反対に当惑するようなばあいも多かった。  自由奔放なわかき天才の道徳観は、しばしば旧習にこりかたまった女流教育家の許容のリミットをこえていた。  加寿子は自分の|倅《せがれ》が書くもののために、赤面しなければならぬような場面にたびたび遭遇しなければならなかった。  このことは弟の徹郎にもいえるのである。  徹郎は秀才としてぶじに学校をでると、伊沢女子学園で講義をうけもっていた。かれはいくいく母のあとをついで女子教育に|尽《じん》|瘁《すい》するつもりだった。  そういうわかき教育家にとって、兄の書く小説はふつごう千万なものばかりだった。当然、かれは兄の芸術観にまっこうから反対し、そこに深刻な対立と反目がうまれたのもやむをえまい。  だが、それが芸術上の反目だけならまだよかったのだが、そのうちに兄の信造が、銀幕の|妖《よう》|花《か》マリと結婚して、家へひきいれるにおよんで、母子兄弟の紛争は爆発点にたっした。  信造は、父が生きているあいだにいちど平凡な結婚をした。あいては政治家の娘だったが、この結婚はすぐに|破《は》|綻《たん》をきたした。  妻の俗臭に愛想をつかした信造は、家をそとにかえらぬ日が多かったので、新妻もたまりかねて実家へにげてかえって、二度と伊沢家へかえらなかった。  そのうちに父の安彦が死亡した。  一家のなかでいちばん信造の理解者だった父に死なれて以来、かれの|放《ほう》|埒《らつ》はいよいよ目にあまるものになり、教育者としての母や弟を当惑させることが多かった。  しかも、そのうちとうとう、ひともあろうにスキャンダルのかたまりみたいな立花マリを家へひっぱりこんだのだから、加寿子や徹郎が世間にたいして、顔むけならぬようなおもいにうたれたのもむりはない。  マリはそれまでに亭主と名のつくものをふたりもったが、それ以外にも、ひとときのたわむれのあいてにした男は枚挙にいとまがないといわれている。  無恥で厚顔で破廉恥な彼女は、自分の情事を平気でひとにしゃべるので、彼女のまわりにはスキャンダルが絶えなかった。それでいてマリの人気はいっこうにおとろえず、むしろスキャンダルがひろまるごとに人気をたかめた。あるひとが立花マリという女は、スキャンダルを肥料にして太っているようなものだといったが、けだし名言というべきだろう。  マリが伊沢家へはいってきた日、徹郎は母と妹をひきつれて別館の離れへひきうつり、母屋とのあいだに厳重な|垣《かき》|根《ね》をもうけた。これによって無言のうちに、兄に絶縁を宣言したも同様である。  だが、マリにとっては結局このほうがしあわせだったわけだ。  彼女は昼間からひとまえもはばからず、良人にあまえたりふざけたりした。それは相当えげつないもので、これには奉公人もおそれをなして、おいおいひまをとったり、隣家の徹郎のもとへひきとられたりしていったので、結局母屋にはひとりも奉公人がいなくなった。とはいえ、マリには炊事だの洗濯だのといった器用なまねはできないので、洗濯と掃除はかよいのばあやにたのみ、炊事は信造がやってのけた。いや、いや、炊事のみならずズロースだのシュミーズだのという、直接マリの膚身につけるものは、信造がよろこんで洗濯していたといわれている。  いったい、信造がどのていどマリを愛していたのかよくわからない。マリを家へひきいれたのは、母や弟にたいする単なる面当てだったのではないかともいわれている。信造の書くものから感得される知性と、立花マリという女の実在が、あまりにもかけはなれていたからだ。  しかし、そうとばかりもいえなかったというのは、信造がマリのシュミーズやズロースを洗わされて、満足していたということ。……すなわち、信造にはマゾッホ的傾向が多分にあって、マリのような獣性をもつ女でなければ満足できなかったのではないか。  もしそうだとすれば、信造が宿命的にせおわされていた悲劇は、そうとう深刻なものだったにちがいなく、それにたいする思いやりが、加寿子や徹郎にかけていたと責められてもしかたがない。  とにかく、マリの素行や交友関係、ことに男との交際に関する信造の監視や|嫉《しっ》|妬《と》は、かなりはげしかったといわれている。  こうして信造とマリのいささかふうがわりな結婚生活は半年つづいた。  マリもわりに神妙にしていて、結婚と同時に銀幕もしりぞき、信造との結婚生活のあいだ、ほかに男をつくったようすもなかった。  マリのような女のつねとして面食いなのである。その点、信造は美貌で貴公子だった。いささか神経質のきらいはあったが、毛なみのよさからくる気品は、いままで彼女が接触をもった男の比ではなかった。いずれは飽きがくるとしても、その当時は十分信造に満足しているらしくおもわれた。  こうして半年たった。  そして去年の五月のはじめごろ、突然、夫婦のあいだにおそろしい破局がやってきたのだ。  その夜、別館の離れでは徹郎も加寿子も外出していて、留守番の早苗のところへ婚約者の雄島隆介があそびにきていた。  ほんとうをいうとこのふたりは、とっくに結婚していなければならぬはずだった。それが|停《てい》|頓《とん》しているというのは、雄島家のほうで難色をしめしはじめたからである。  理由は簡単だった。  マリのようなあによめをもつ娘を、嫁にもらいにくいというのである。だから、当然、このふたりも兄夫婦に好感をもっているはずはなかった。  それはさておき、その夜の八時ちょっと過ぎのことである。  離れのほうで隆介が早苗のピアノをきいているところへ、突然母屋のほうからただならぬ叫び声がきこえてきた。それは男のののしるような怒号の声と、それにつづいてたまぎるような男の悲鳴が、ひとこえたかくつんざいて、離れの住人たちをおどろかせた。  どちらもたしかに信造の声らしかった。 「どうしたんだろう」 「兄さんの声じゃあなかった?」  窓のそばへかけよったふたりが、垣根のむこうのけはいに耳をすましているところへ、お種という女中が入ってきた。 「お嬢さま、いまの声をおききになりまして?」  と、お種の顔色もまっさおだった。  そこへ先代からつかえている作蔵というじいやが、顔色かえてとびこんできた。 「お嬢さま、いまの声はあちらの|旦《だん》|那《な》じゃございませんでしたでしょうか」 「お兄さま、きっとなにか気にいらないことでもあったのね」  こういうことで奉公人にさわがれることをこのまない早苗は下唇をかんでいた。 「だけど、お嬢さま、いまの声はただごとじゃございませんでしたよ。なにかこう、まるで断末魔のような……」 「いやよ、じいやさん!」  お種は肩をすぼめて、しかし、じいやさんのいうとおりだと思いながら、垣根のむこうの暗い空に|瞳《ひとみ》をすえている。 「おいおい、じいやさん、つまらないことをいうもんじゃないよ。きっとマリさんがヒスでもおこしたんだろうよ」 「すみません。しかし、なんだか気にかかるもんですから……」  ちょっとのま、一同は垣根のむこうにむかって耳をすましていたが、母屋のほうはそれきりシーンとしずまりかえっている。  早苗はこういうことで動揺しているとおもわれたくなかったが、しかし、顔色のわるさはかくしきれなかった。彼女もまた、断末魔のようなといったじいやのことばに、しだいに同感をおぼえてきたのである。  結局お種をそこにのこして、三人で隣の家へいってみることになった。  おなじ邸内とはいえ、厳重な垣根で境界をつくって、入口などもべつにしてあるので、三人はいったん屋敷の外へ出なければならなかった。塀の外をひとまわりして、表門のほうへまわってみると、門も玄関もあいており、奥のほうに電気がついていた。 「兄さん、兄さん、どうかして……」  早苗が声をかけながら、三人は電気のついている居間のドアのまえまでやってきた。そして、ひと目部屋のなかをのぞいたとたん、三人とも棒のように立ちすくんだのである。  そこはマリを妻にむかえるについて、信造が洋風に改装した居間で、その居間の奥におなじく洋風の寝室がついている。  信造はマリとの夫婦生活に、|鍵《かぎ》のかかる寝室を必要としたのである。  それはさておき、その居間の|絨氈《じゅうたん》の上に、ワイシャツの上にガウンをはおった信造が、あおむけにひっくりかえっていた。しかも、ワイシャツの胸のあたりから、ぐっしょりと赤いものが吹きだしているのである。  しかもそのそばに身じろぎもせず立っているのは妻のマリである。マリは果物をむくナイフをにぎったまま、血走った目を、床の上に見すえていた。マリのにぎったナイフの刃は、ぐっしょりと血に染まっていた。  だれの目にも、そこになにごとがおこったのか一目|瞭然《りょうぜん》だった。 「マリさん」  雄島隆介が絶叫した。  マリははっとわれにかえったようにドアのほうをふりかえると、いそいで手にしたナイフを投げだした。 「マリさん、きみはなんだって信造さんを……」  ちょっとのま、マリはなにをいわれたのか、その意味を解しかねたようだったが、憎悪と恐怖におののく早苗の瞳に気がつくと、急に気がくるったようにわめきだした。 「いいえ、いいえ、あたしじゃない。あたしがやったんじゃあないのよう。あたしはいま外からかえってきたばかりよ。そしたら信造さんがここに倒れていて。……あたし、びっくりしてナイフを抜きとったのよ。あたしじゃない、あたしじゃない。あたしはなんにも知らないのよう!」  マリはヒステリーの発作をおこしたのか、じだんだ踏んで泣きだした。  そういえばマリはオーバーを着て、手袋もはめたままだった。  ところが、ここで早苗と隆介は大きな失策をやらかして、それがために伊沢家はのちになって、世間から指弾の的とされたのである。  このばあい、なにをおいても医者を呼び、警官にこのことを知らせるべきだった。だが、それよりまえに、早苗のあたまにピンときたのは、一家の名誉ということだった。  母や兄に相談せずして、一家の恥辱になるようなことを、世間に|吹聴《ふいちょう》するようなまねをしてよいだろうか……。  そういう考えかたが彼女に敏速な行動をとることをためらわせた。早苗のいうことなら唯々諾々の隆介は、不本意ながらも彼女の意見に同意せずにはいられなかった。  母の加寿子と兄の徹郎は、それから一時間ほどのちに、相前後してかえってきた。そして、知らせによって警官が駆けつけてきたときには、マリの姿は見えなかったのである。  抜けめのないマリは早苗や隆介が周章|狼《ろう》|狽《ばい》、まごまごしているあいだに、家のなかの有り金全部に、貴金属や宝石類をひっさらってドロンをきめこんだ。  そして、それ以来、一年のちの今日まで、|杳《よう》として消息を絶っていたのであった。     死体を抱いた男  世に判官びいきということばがある。弱者にとかく同情があつまるという意味である。  マリの|失《しっ》|踪《そう》中、彼女の有罪を信じてうたがわなかったひとたちでも、彼女のこの世にも異様な出現に遭遇すると、人情のしからしむるところとして、もういちど去年の事件をふりかえってみる気持ちになるものである。  こういう事件の際、自殺はとかく有罪の告白とみられがちなのがふつうなのに、マリの自殺にかぎっては世論は反対の傾向をたどった。  それはおそらく、いままであまりにもつよく、マリを責めすぎたことにたいする|贖罪《しょくざい》の気持ちもはたらいたのだろう。  それまでだれもマリのような女が、自殺するだろうなどと考えたものはなかった。マリは以前、その豊満な肢体から、外人のファンをかなり多くもっていた。個人的に接触をもつものも数名あった。なかには肉体的に関係をむすんだものもあったかもしれない。  マリはおそらくそういう外人の手引きで海外へ逃亡し、いまごろはどこかでペロリと赤い舌を出しているのだろうと考えられ、彼女を憎まぬものはなかった。  それだけに、マリのこの劇的な出現にショックを感じた世間は、信州の密林のなかでさびしく死んでいた彼女にたいして、いまさらのように同情の目をむけるのである。そうなると必然的に伊沢家にたいする風当たりがつよくなってくるわけだ。  だいたい、マリの失踪当時から、この事件はかなり多くの疑問をもっていた。  別館の離れに住む四人が、信造の悲鳴をきいてから母屋へ駆けつけるまでには、かなりの時間が経過していたはずである。そのあいだマリが凶器をにぎったまま、現場につっ立っていたというのからしておかしい。  もっとも信造は横っ腹と心臓との二か所に深手を負うていて、心臓のひと突きが致命傷になったということだが、それにしても、そんなに時間を食うはずがない。そのうえ、彼女が外出からかえったばかりだったらしいということも、早苗や隆介の証言から認められている。  そうすると、やっぱりあのときマリが口走ったのがほんとうではなかったのか。信造はだれかほかの人間に殺害され、犯人が逃走したあとへ、マリがかえってきたのではないか。……と、これは当時も論議されたところなのだが、それではマリはなぜ逃亡したのか。  こういう事件の際、逃走だの自殺だのということが、有罪の告白とみられるのがふつうだということはまえにもいったが、そのうえ、マリのそれまでの不行跡のひとつひとつが、彼女にとって不利でないものはなかったのだ。  しかし、いまこうしてマリの身に同情があつまり、マリ有罪説がうすらぐと、あらためてまえにあげた矛盾が指摘され、当時の伊沢家にわだかまっていた険悪な空気について議論がむしかえされ、ことに警察へとどけでるのを半時間以上もおくらせたというところに、なにか重大な意味があるのではないかと憶測されたりした。  なかにはもっとひどいことをいうものもある。  マリは逃亡したのではない。伊沢家のひとびとのために軽井沢の別荘へ監禁されていたのだ。そして、折をみて一服盛られ、あの林のなかへ運びこまれて、自殺をよそおわされたのだ……と。  だが、こうして伊沢家にたいする世間の風当たりがしだいにつよくなる反面、いっぽうにはその議論ちょっと待ったと、疑義をさしはさむ懐疑論者もないではなかった。  いったい畔柳博士のあの作品は、ほんとうに博士がいっているように、科学的に、解剖学的に、白骨に肉づけされてできたものなのか。ひょっとするとはじめから、立花マリを想定のもとにおいて製作されたまやかしものではないのか。……と、いうのが懐疑論者の意見であった。  この懐疑論者にもかなり多くの賛成者があり、それらの賛成者の大部分が学者であったのも皮肉である。  そのひとたちはいう。  頭蓋骨の肉づけによって生前の面影を復原するということを、絶対に不可能であるとはいわない。あるていどそれは可能である。しかし、畔柳博士の作品はあまりにも立花マリに似すぎている。  あの白骨が立花マリであったにしろ、なかったにしろ、畔柳博士は実験の途中から、無意識のうちにも立花マリを想定下においたのではないか。現に博士もあるていど肉づけが進行したとき、立花マリに似ていると気がついたというではないか。そういう意識のもとにあって、はたして虚心|坦《たん》|懐《かい》に製作がすすめられたのであろうか……。  と、さすがに真正面から畔柳博士の実験を、インチキだとは指摘しなかったが、かなり多くの疑惑をほのめかしたものである。  ところが、ここに思いがけない事件がおこって、前述のような懐疑論者の疑惑を一挙に粉砕すると同時に、畔柳博士の実験の価値を決定づけ、それにつれて伊沢家にたいする世間の風当たりが、さらにいっそうつよくなりいくはめにたちいったのである。  思いがけない事件というのはこうだ。  防犯展覧会の第四日め、すなわち|蝋《ろう》美人立花マリの評判が、|喧《けん》|々《けん》|囂《ごう》|々《ごう》と日本じゅうに話題をまきおこしているころのことである。三星堂百貨店七階の、防犯展覧会の会場でひとつの騒ぎがもちあがった。  蝋美人を見ようという見物が、長蛇の列をなして防犯展覧会場を進行中、突然蝋美人の正面へさしかかった見物のなかから、ただならぬ叫び声がおこったのだ。 「ああ。この女だ、この女だ、おれが裸にしたのはこの女だ! ああ、恐ろしい! 恐ろしい」  それは|胡《ご》|麻《ま》塩の頭髪をみじかく刈った五十前後の男であった。顔も首筋もまっくろに日焼けしていて、ずんぐりとした体を粗末な作業服でくるんでいた。巻きゲートルをつけた脚には地下足袋をはいており、ゴツゴツと節くれだった指のふとさからして、一見して土工か仲仕かという|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》だった。  そういう男が突然、ものにつかれたような目つきをして、異様なことを口走ったのだから、そうでなくとも蝋美人立花マリの気味わるさに、いくらかおびえぎみだった前後の見物たちが、ぎょっとしてとびのいたのもむりはない。 「ああ、恐ろしい! おまえはそうして生きかえったんだな。よもやよもやと思うてきたが、おまえはあのじぶんとそっくりだ。そうにらまねえでくれ。かんべんしてくれろ。おれはこうしてあやまりに来たんだ」  男は気が狂ったようにわあわあわめいた。  白布でおおうた壇のはしに、食いいるように節くれだった指をたて、|狐《きつね》つきのように目がうわずって、わなわなふるえる唇のあいだから、|涎《よだれ》がたらたら垂れている。  その男の前後にいた見物は、わっとおびえて二、三歩あとじさりをする。それにつれて前をいく行列にも、あとにつづいた見物にも波動のように混乱がつたわって、 「どうした、どうした、なにごとが起こったんだ!」 「なんだか知らんが、むこうのほうでわあわあわめいているやつがあるぜ」  列をみだしてささやきかわす見物のなかに、気が狂ったようにわめきたてる異様な叫び声がきこえてくる。 「悪かった! 悪かった! ねえちゃん、かんにんしてくれろ! おめえの|死《し》|骸《がい》をめっけたとき、すぐおまわりさんに知らせりゃよかったんだ。だけど、おめえがあんまりかわいい顔をしているもんだで、つい変な気をおこして……つまらねえいたずらをしてすまなかった。おれは毎晩おめえの夢を見ているんだ。夢を見てはうなされつづけてるんだ。ねえちゃん、かんにんしてくれろ!」  男のわめき声の意味がわかると、周囲にいたひとびとは、いっせいに悲鳴をあげてとびのいた。ある忌まわしい連想が稲妻のように脳裏をかすめて、ひとびとはこの無骨で粗野で、どこかワイセツな感じさえする男に、恐怖の目をみはった。  男はなおも壇にとりすがって、くどくどと、いまわしい繰り言をわめきたてる。それはとうてい文章にして人目にさらせるようなことばではなかった。  それはあまりにもあさましく、あまりにも|淫《いん》|猥《わい》で、しかもあまりにも陰惨な事実だった。とにかくある期間この男は、マリの死体といっしょに寝ていたということを告白しているのだ。そして、そのことについて、いっぽうでは良心の|呵責《かしゃく》になやまされながら、いっぽうではいまもって、その当時の思い出をわすれることができないということを、|臆《おく》|面《めん》もなくべらべらしゃべっているのだ。  しかも、こうして露骨なおしゃべりをすることによって、男はいまわしい欲情を刺激されたのか、涎をたらたら垂らしながら、壇の上へかけのぼろうとする。  このときになってやっと店員や守衛が駆けつけてきた。  男はかれらにささえられ、抱きとめられると、|俄《が》|然《ぜん》、凶暴性を発揮した。 「はなせ! はなせ! おりゃあこのべっぴんに話があるんだ。おりゃあこのべっぴんにほれてるんだ。このべっぴんはおれのおかみさんだったんだ!」  ずんぐりとした男の肉体には、たくましい腕力が秘められていた。店員のひとりは男のつよい一撃にあって、二、三間むこうへすっとんだ。さらに二、三人の店員が駆けつけて、 「はなせ! はなせ! おれのおかみさんをどうするんだ。おれのおかみさんをかえしてくれ!」  と、目をいからせ、歯をむきだしてわめきたてる奇怪な男を展覧会の会場からひきずりだし、知らせによって駆けつけてきたおまわりさんにひきわたすまでには、かなりの時間を要して、一時防犯展覧会の会場は大混乱を呈した。  さて、取り調べの結果、この男こそ軽井沢の山男、すなわちあの腐乱死体の最初の発見者なる佐藤亀吉であることが判明して、俄然、捜査当局を緊張させた。  亀吉ははじめ極度に興奮していたが身柄を所轄警察から警視庁へうつされるじぶんから、しだいに落ち着きをとりもどしてきた。そして、取り調べにあたった等々力警部の質問にたいしても、案外すらすらと告白した。  それによると亀吉が死体を発見したのは、実際の届け出よりはるかにはやく、五月下旬のことだったらしい。そのとき女の死体はまだほとんど腐乱の様相をしめしておらず、むろん洋服を着て、合オーバーもそばにぬぎすててあった。草むらのなかにはハンドバッグも投げだしてあったという。  亀吉は最初このオーバーやハンドバッグに目がくれたのだそうである。  そこでかれはひそかにそれを小屋へもちかえって押入のなかへかくした。ところがその夜つらつらと、この異様な発見について考えをめぐらせているうちに、かれは奇妙な結論に到達したのである。つまり、死人に着物を着せておくのはむだなことでもあり、かつまたもったいないことだとも考えられたのである。  そこで、夜陰に乗じてそっと密林の奥へしのんでいって、女の死体から着物をはぎとった。スーツのみならず膚につけたものまですっかりはがれて、女の死体は生まれたときのままの姿になった。  そのときになって、亀吉は突然あさましい欲望のとりこになった。  それは五月下旬の、高原にしても膚になまあたたかさを感ずる、空気にねっとりとした粘りけのある晩だった。それに月がよかったので、密林の葉末をもれる光のなかに、女の裸身は神秘的なうつくしさをもって亀吉の男性にうったえた。服毒の|苦《く》|悶《もん》もあとをとどめず、女の顔は無心にほほえんで、亀吉をいざなうかのようにみられた。  亀吉の体内には突如として、野獣のような男の血が奔流したのである。  亀吉は奇妙な哲学をもっている。それはかれが一時東京で、バタ屋をしていたところからきているのである。バタ屋にとっては拾ったものはすべて自分のものであり、自由にしてよい権利があるのだ。  亀吉は密林のなかで女の死体をひろったのだ。自由にしてなぜ悪いのか。  それ以来、かれは夜ごと密林の奥へしのんでいって、ものいわぬつめたい愛人とあまいささやきをかわした。変人のかれは新聞も読まず、映画も見なかったので、自分の拾得した愛人が、どこのなにびととも知らなかった。また知ろうとも思わなかった。  だが、亀吉の悦楽はそうながくはつづかなかった。ある夜そっとあいびきに出むいていくと、自分の愛人が世にも嫌悪すべき状態をしめしているのに気がついた。野犬か野獣か知らないが、するどい|牙《きば》でかみ裂かれているのを発見したのだ。  それにその少し以前から、愛人が鼻もちならぬ臭気をはなちはじめ、それにも少なからず|辟《へき》|易《えき》していたところだったので、この無残な状態を見ると、かれはいっぺんに愛想をつかした。それ以来かれは愛人をすて、秘密の悦楽から遠ざかった。  しかし、亀吉のような男にも一片の良心はのこっていたのだ。秘密の悦楽とはべつに、やはり気になるのでときどきは、かつての愛人のその後の推移を観察に出むいていたが、八月のおわりごろになって、とうとうたまりかねてもよりの駐在所へとどけて出たというのである。  佐藤亀吉のこの供述ほど捜査当局を緊張させたものはない。かれははっきりおのれの|愛《あい》|撫《ぶ》していた女を蝋美人立花マリだと認めている。いや、認めているのみならず、かれは蝋美人の所有権を主張してやまないのだ。 「わたしはあやまって薄情にもあれを捨てました。いまになって後悔しております。あれはわたしのかかあです。わたしが森のなかでひろったかわいいかかあです。どうぞあれをわたしにかえしてください」  亀吉は真顔になって嘆願するのだ。ボロボロ涙をこぼして哀願するのである。  それはともかく亀吉の供述にもとづいて、係官がただちに軽井沢へ急行した。そして、亀吉の小屋のすぐ背後にある|崖《がけ》のほらあなの奥をさぐったところが、はたして荒縄でからげた古びた柳|行《ごう》|李《り》がでてきた。  しかも、その柳行李の中から発見された女の合オーバーやハンドバッグ、さては亀吉が死体からはいだというスーツや膚着や靴下の類が、いずれも立花マリの|失《しっ》|踪《そう》当時、身につけていたものであることが判明するにおよんで、畔柳博士の実験に疑いをさしはさむ余地は完全になくなった。  軽井沢の密林から発見された女の変死体は、やはり立花マリだったのだ。しかし、マリははたして自殺したのであろうか。軽井沢には伊沢家の別荘がある。マリの死の背後にはなにびとかの|奸《かん》|悪《あく》な手がはたらいているのではあるまいか……。  佐藤亀吉の供述によって伊沢家にたいする世間の疑惑は、いよいよふかくなっていったのである。     乙女の祈り  こうして伊沢家が四面|楚《そ》|歌《か》の声のなかにたたされているある日、金田一耕助をその住居にたずねてきたものがある。  金田一耕助は松月という友人の二号が経営している大森の|割《かっ》|烹《ぽう》旅館の離れに居候しているのだが、その離れの一室の茶卓をへだてて、いま金田一耕助がむかいあっているのは、早苗の婚約者雄島隆介である。  隆介もよい毛並みに生まれたひとりだ。  かれの父は外交官で、戦前大使までつとめたが、戦争中軍に忌まれて|逼《ひっ》|塞《そく》していた。それがかえってしあわせとなり、戦後は政治家として復活し、目下はなばなしい脚光を浴びている。かれの母は明治の重臣の娘で、早苗の母の加寿子とは同窓だった。  したがって両親とも隆介と早苗の結婚に異論はなかったのだが、なにぶんにもマリという女が存在している以上、難色をしめすのももっともだったし、ああいう事件がおこってみれば、事件がはっきり解決するまで、結婚をのばそうというのもむりはなかった。  こうしてマリという女性のために、ふたりの結婚はおあずけされた犬みたいに、延引に延引をかさねてきたのだが、さらにこんどは伊沢家が、悪意にみちた世間の注視のなかにさらされることになったのである。 「それというのもぼくがいけなかったんです。信造兄さんが殺されたとき、早苗さんが反対しようがしまいが、すぐに医者をよび、警察へ知らせればよかったんです。それを早苗さんが泣くもんだから、つい|躊躇《ちゅうちょ》したのがいけなかったんです」  だから、いま伊沢家が世間からなにかと指弾されるのも、みんな自分の責任だと、この毛並みのいいお坊っちゃんは、しょんぼりと首を垂れるのである。  そういえば防犯展覧会の初日の会場で、金田一耕助が出会ったときから見ると、だいぶ|憔悴《しょうすい》しているようだ。 「なるほど」  と、金田一耕助は注意ぶかくあいてを見まもりながら、 「それにしても、雄島さん、あなたはいったいこのわたしに、なにを期待なさろうとおっしゃるんですか」 「はあ、それですから先生にもういちどこの事件を調査していただいて、黒白をはっきりさせていただきたいと思うのです。世間ではまるで伊沢のおばさんと徹郎君が共謀して、信造兄さんを殺し、その罪をマリさんにせおわせたあげく、そのマリさんをまた殺したんだなんて、そんなふうにいってるでしょう。それじゃ、なんぼなんでもあんまりだと思うんです。伊沢のおばさんだって徹郎君だって、そんな鬼のような人間じゃありません」  雄島隆介はぽっちゃりとした、いかにもお坊っちゃんお坊っちゃんした|頬《ほお》を紅潮させて、青年らしく力んでみせる。  金田一耕助はふとこのあいだ会った早苗の、母親に似て気位のたかそうな高慢ちきな鼻のさきを思いだした。  彼女も将来母とおなじように、つめたい鋼鉄みたいな女になるだろう。そして、そういう女にとっては隆介のような気性のやさしい|良人《お っ と》が必要なのかもしれないと、金田一耕助はついよけいなことを考えてみる。 「しかし、それはむずかしい問題ですね。なにしろ時日が経過しすぎている。それにマリという女が現在生きているのならともかく……」 「先生!」  隆介はふいにむっくりと顔をあげると、キラキラと油の浮いたような熱っぽい目で、金田一耕助を凝視した。 「マリさんはほんとうに死んだんでしょうか」 「えっ?」 「いや、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の肉づけということはほんとうに可能なんでしょうか」  金田一耕助はドキリとしたように目をすぼめて、あいての顔を凝視した。 「雄島さん、あなたのおっしゃる意味がよくわかりませんが……」  金田一耕助の凝視をまともに浴びて、隆介はまぶしそうに目をそらすと、 「かりに……」  と、ちょっと|生《なま》|唾《つば》をのみ、 「頭蓋骨の肉づけということが可能として、あれがほんとうのマリさんだとしても、畔柳先生のやりくちは、伊沢家にとっていささか不親切すぎるとお思いになりませんか」  それは金田一耕助も感じていた。しかし、金田一耕助はそのことを学者らしい功名心を満足させるために、つい他の迷惑までかえりみる余裕がなかったのだろうと、かるく考えてきたのだが……。  隆介はふたたび熱っぽい目をあげて、金田一耕助を凝視しながら、 「畔柳博士はあれをマリさんだと気がついていた。それならばなにもあのように、大衆のまえへさらしものにせずとも、伊沢家へそのむねを報告するのがほんとうじゃあないでしょうか。まんざら知らぬ仲ではなし……」 「えっ!」  と、金田一耕助はあいての瞳を見かえした。 「それじゃ畔柳先生は伊沢家とじっこんなんですか」  それにしてはこのあいだの加寿子と畔柳博士の対応はおかしいと、金田一耕助はさぐるように相手の顔色を見る。 「いえ、最近ではべつになんの関係もないんですが、むかしは……」 「むかしは……?」  と、金田一耕助は気の弱そうな青年をはげますようにことばをはさんだ。 「はあ、じつはこのことは母からきいたんですが、畔柳先生もそのむかし、おばさん……伊沢のおばさんの求婚者のひとりだったんだそうです」 「雄島君、そ、それ、ほんとうですか」  金田一耕助は|卓袱《ち や ぶ》|台《だい》の上から乗りだすようにして、あいての顔をのぞきこむ。隆介もこんどはがっきりと、驚きにみちた耕助の視線をうけとめて、 「母にきいた話なのです。こんな真剣な問題で、母がうそをつくとは思われません」 「いや、失敬、失敬、それで……?」 「はあ、母の話によるとおばさんも先生を愛していらして、非常に有望なところまでこぎつけていたんだそうです。母なんかもてっきり畔柳先生と結婚するもんだとばかり思っていたそうです。ところがどたん場になってひっくりかえって、おばさんは安彦おじさんと結婚したんだそうです」 「なるほど、それで……?」 「はあ、それですから……」  と、隆介はちょっといいよどんだのち、 「こんどのことは畔柳先生のおばさんにたいする|復讐《ふくしゅう》ではないかと、母なんかもいってるんです。まさかそんなこともないでしょうが、結果からいえば、そういうことになるんです。あんまり先生のやりくちはあくどすぎます。学者にあるまじきことだと思うんです」  隆介の頬が憤激の色に紅潮するのを見やりながら、 「学者らしくないって、防犯展覧会へあれを出品したこと?」 「いえ、それもありますが……、それよりもっとひどいこと……」 「それよりもっとひどいことって?」 「先生は御存じなかったんですか。畔柳先生はあの|蝋《ろう》人形を、見せ物師に売りわたそうとしているんです」 「見せ物師に売りわたす……?」  金田一耕助にとってそれは初耳だった。思わずかれはことばをつよめてききかえした。 「ええ、そうなんです」  と、隆介は憤激の色をおもてに走らせ、 「先生は御存じなかったんですか」 「いや、それはぼくも初耳だが……」 「伊沢家では防犯展覧会もおわったので、あの人形をひきとりたいと畔柳博士に申し出たんです。ところが先生はあれを見せ物師に売りわたすというんです。そんなことをされたら、伊沢家の名がいつまでもひとの口のはしにかかって……」  と、隆介が憤慨するのもむりではなかった。  なるほどそれではあくどすぎる。それに隆介もいうとおり、学者にあるまじきふるまいといわねばならぬ。  金田一耕助はなにかしら、鉛でものみくだしたようなおもっくるしい気持ちに圧倒されて、隆介からそらせた目を窓外へやった。  窓の外には風もないのに、白梅の花がハラハラと散っている。金田一耕助は見るとはなしに、点々とこぼれていくしろい花びらの行方を目で追うている。  雄島隆介の話はすくなからずかれをおどろかせたのだ。  畔柳博士と伊沢加寿子がかつては相識の仲だった。いや、相識の仲だったのみならず、愛しあった仲だったのを、加寿子が裏切ったということと、こんどの博士の実験とのあいだに、なにか関係があるのだろうか。  金田一耕助は畔柳博士の性格をかなりよく知っている。博士はある意味では恐ろしい、危険な人物なのである。  金田一耕助の沈黙にひきこまれたように、雄島隆介も無言のままでひかえていた。しいんとした静けさが、主客ふたりのあいだをながれる。  と、突如としてこの沈黙をやぶって、本棚の上においたオルゴールが鳴りだした。曲は『エリーゼのために』  ところがオルゴールが鳴りだした瞬間、 「あっ、オルゴール!」  と、叫んで隆介が腰を浮かしたので、金田一耕助がびっくりしてふりかえった。 「オルゴールがどうかしましたか」 「ああ、いや、どうも失礼しました」  と、隆介は半分浮かした腰をおろすと、 「信造兄さんが殺された晩のことを思いだしたもんですから」  と、きまりわるそうに額ににじんだ汗をふいている。  金田一耕助はふいと目をそばだてた。当時の新聞の記事を思いだしても、オルゴールのことなんか一行も出ていなかった。 「信造兄さんが殺された晩……?」  と、金田一耕助はまじまじとあいての顔を見ながら、 「あの晩、オルゴールがどうかしたんですか」 「いえ、あの、つまらんことで……」 「いいえ、きかせてください。どんなつまらんことでもいいからいってください。オルゴールがどうかしたんですか」  と、金田一耕助はかさねてたずねた。 「はあ、あの、べつにあの事件とふかい関係があるとは思えませんが、それじゃいちおうお耳にいれておきましょう」  と、隆介は額の汗をふきおわると、耕助のほうへむきなおった。 「あの晩、ぼくは窓のそばにすわって早苗さんの弾くピアノをきいていたんです。そのとき母屋のほうからオルゴールの音がきこえていました。曲は『乙女の祈り』だったと思います。ところがそこへあの悲鳴がきこえてきたんです。ぼくは窓をひらいて外を見ましたが、早苗さんもしばらくしてそこへやってきました。しかし、そのときはもうオルゴールの音はやんでいたようですから、早苗さんはきいたかどうかわかりません」 「オルゴールは悲鳴がきこえたあともつづいていましたか」 「つづいていたように思いますが……」 「それでオルゴールの音はやんでいたとおっしゃったが、しぜんに鳴りおわったんですか。それともなにかのはずみで故障ができて……」 「はあ、そうおっしゃれば、なんだか突然やんだような気がしますが、それもはっきりとはおぼえておりません」 「ところであなたが駆けつけていったとき、オルゴールはありましたか」 「はあ、信造兄さんの|枕《まくら》もとに……」 「なに、枕もとに……」 「たぶん、テーブルの上からころがりおちたんでしょう。底ぶたがすこしはずれていましたから」 「それで、そのオルゴールはいまどこに?」 「それはたぶんマリさんがもっていったのでしょう。警官が駆けつけてきたときにはなかったですから」 「雄島さん」  と、金田一耕助はまじまじとあいての顔を見ながら、やさしくさとすようにいった。 「あなたはそんな大事なことを、どうして警官にいわなかったのですか」 「いいえ、それは申しました」 「でも、新聞にはオルゴールのことなんか一行も出ていなかったようですが……」 「はあ、ぼく、オルゴールといわずに宝石箱といったんです。マリさんはそれを宝石入れにつかってたと早苗さんがいってましたから」  金田一耕助はしばらくだまって考えこんでいたが、やがておだやかな瞳を隆介にむけてこういった。 「雄島さん、いまのところこのぼくにも、はっきりお引きうけするといいきる自信はありません。とにかくいちど等々力警部にあって話をきいてみましょう。お引きうけするかしないかという御返事は、それまで保留させておいてください」  雄島隆介もそれ以上つよくは押せず、なかば満足し、なかば失望したような顔色でかえっていったが、金田一耕助はその翌日、約束をまもって警視庁の第五調べ室へ等々力警部をたずねていった。  さいわい警部も在庁して、こころよく金田一耕助をむかえたが、かれもこんどの事件にはだいぶん頭をなやましているらしかった。 「それでどうなんです、警部さん、あの死体は立花マリとはっきり決定したんですか」  金田一耕助の質問に等々力警部も顔をしかめて、 「その点、もうまちがいないようですね。じつをいうと金田一さん、わたしも学問の尊厳にたいして、敬意をはらうにやぶさかでないものだが、畔柳博士のあの実験には、もうひとつ信用がおけなかったんです。ところがああして佐藤亀吉という証人があらわれ、立花マリの着衣その他が発見された以上、あの死体はやっぱり立花マリだったと断言するよりほかなさそうです」 「佐藤亀吉というのはどうなんです。精神鑑定はやったんでしょう」 「やりました。しかし、べつにとりたてて異常というところも認められないんですね。非常に孤独な、世間からひとり孤立したような生活をしているので、偏執狂的な傾向はあるようですがね」 「だけど、あの死体が発見されたときの畔柳博士その他の鑑定によると、べつに犯されたような形跡はなかったというんでしょう。そのこととこんどの亀吉の供述とでは、矛盾するんじゃないんですか」 「いや、それが……」  と、等々力警部は顔をしかめて、 「亀吉のやったことはそれほどあくどいことでもなかったんですね。それだと死体に|痕《こん》|跡《せき》がのこらないのも当然なんで……」  と、等々力警部はにがにがしげに、亀吉のいまわしい供述をくりかえした。 「なるほど」  と、金田一耕助は考えぶかい目つきをして、 「それにしても妙ですね。あの死体が発見されたときは知らぬ存ぜぬで押しとおした男が、なんだってまた。……いや、それよりも新聞も読まぬという男が、どうしてあの|蝋《ろう》美人のことを知ったんですか」 「それはこうです。むこうの新聞にもあの記事が写真入りで大きく出たんですね。それでだれかが、これがおまえの発見した死体だと、亀吉に見せたものなんですね。見るとそこに出ている写真というのが、自分がおもちゃにした女の死体と、そっくりおなじに復原されているので、びっくりして現物をたしかめるために上京したというわけですね」 「なるほど、それで目のあたりに現物を見て、急に激情にかられたというわけなんですね」  金田一耕助は考えぶかい目の色をして、ぼんやりともじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、急に悩ましげな目をあげて、 「それで、亀吉の供述によって立花マリの着衣その他が発見されたというわけですね」 「そうです、そうです。それによって、まあ、亀吉の供述の真実性が裏書きされたというわけです」 「ところが、警部さん」  と、金田一耕助はいよいよ悩ましげな目の色をして、 「立花マリは出奔するとき、貴金属や宝石類を相当もちだしたということですが、そういうものは……」 「さあ、それなんですがね」  と、等々力警部は|眉《まゆ》|根《ね》をくもらせ、 「そういうものはいっさい発見されていないんです。佐藤亀吉の供述によると、そんなものはひとつもなかった、柳|行《ごう》|李《り》のなかにある分が、マリの所持していたもののすべてだというんですが、亀吉がうそをついているのか、すなわち、うそをついて貴金属や宝石の類を着服しているのか、それとも、亀吉のいうのが真実であって、マリの死体の身辺には、貴金属や宝石の類はなかったのか。なかったとするとそれはどうなったのか……」  と、等々力警部は真正面から金田一耕助の顔を見すえて、意味ありげにためいきをついた。 「指輪やイヤリング……そういうものもなかったんですね」 「ええ。そういうものいっさい……」 「それで警部さんのお考えではどうなんですか。佐藤亀吉がうそをついて隠匿しているとでも……」 「いや、どうもそうは考えられないんですね」 「と、すると妙なことになってきますね。立花マリのような女が自殺するのに、貴金属や宝石類、さては身につけた装身具まで、いっさいあげて慈善事業に寄付するなんてことは考えられませんからね」 「そこなんですよ、金田一さん。いや、問題はそれ以前にあるんです。すなわち、立花マリのような女がはたして自殺するかということ……」 「軽井沢には伊沢家の別荘があるそうですね」  金田一耕助がなにげなくもらしたことばをききとがめて、 「金田一さん!」  と、等々力警部はけわしい表情を見せた。 「それじゃ、あんたも伊沢家の連中の手がマリの変死事件にはたらいていると…」 「いや、いや、べつにそういう意味で申し上げたんじゃありませんがね」  と、金田一耕助はことばをにごすと、 「ときに、警部さん、畔柳博士はあの作品を|香《て》|具《き》|師《や》に売りわたすそうですね」 「ああ、そのこと……」  と、等々力警部も顔をしかめて、 「あの先生にもこまったもんだな。伊沢家のやりくちによっぽど反感をもってるんですかね。それともあの高慢ちきなばあさんの鼻をあかしてやろうという腹ですかね。どっちにしても伊沢家ではこまるでしょうな」 「当局のほうでそういうことを、禁ずるというわけにもいかないんでしょうね」 「いや、それも研究中なんですがね。あのじいさん、意地になるとなにをやらかすかわからんのでね」  警部はまだ畔柳博士と伊沢加寿子のむかしのいきさつは知らないらしかった。  金田一耕助も徳義上、それはまだふれるべき問題ではなかった。  その翌日、金田一耕助は軽井沢へ出発するつもりだった。雄島隆介の依頼があったばかりではなく、かれはしだいにこの事件にふかい興味をおぼえてきたのである。  ところが三時ごろになって等々力警部から電話がかかってきた。そして、事件はここに急展開をしめすことになったのである。  等々力警部の電話というのはこうである。昨夜、畔柳博士が自宅で殺害されたから、すぐ麻布の博士邸へおもむくようにと……。     首なし|蝋《ろう》美人  麻布の|狸《まみ》|穴《あな》にある畔柳博士の邸宅へ、金田一耕助が駆けつけると、付近はいっぱいのひとだかりだった。  なにしろ、あの蝋美人の一件以来、博士は世間注視の的となっていたのである。その問題のひとが殺害されたというのだから、世間がわっとわいたのもむりはない。  金田一耕助が門のなかへ入っていくと、捜査課の連中が右往左往するなかから、顔見知りの刑事が見つけて、 「あっ、金田一先生、こちらへ……」  と、案内されて入っていった現場というのは、洋風に設計された寝室で、ベッドのそばで等々力警部が、なにかと部下に指図をあたえていた。もうあらかた検証もおわったあとらしく、いちめんにべたべたと白い粉末が散布されていて、鑑識課の連中が指紋採集に大わらわの最中だった。 「やあ、警部さん、さきほどはどうも……」  金田一耕助が|挨《あい》|拶《さつ》をすると、等々力警部がふりかえって、 「やあ、金田一さん、さあ、どうぞこちらへ……そろそろ死体をひきとりにくる時刻ですからね。そのまえにあんたにも現場を見ておいていただこうと思って……」 「いや、どうもありがとう。また厄介なことがもちあがりましたな」  金田一耕助はむつかしい顔をして部屋のなかへ入っていった。そして、いましも写真班のフラッシュを浴びているベッドの上に目をそそぐと、思わずぎょっと呼吸をのんだ。見なれているとはいうものの、いつ見ても他殺死体というものは気味がよくない。  ベッドの上には畔柳博士が文字どおり大の字になってふんぞりかえっていた。パジャマにくるんだ五尺八寸の大きなからだが、ベッドいっぱいにひろがって、左の胸のあたりからおそろしく血が吹きだして、ぐっしょりと黒くかたまっている。  金田一耕助はおもわず顔をそむけた。 「寝てるところをやられたんですね」  金田一耕助が声をひそめた。 「どうもそうらしいですね。格闘のあとが見えないところをみるとね」 「それにしてもうまく心臓をねらったもんですね」 「たったひと突き、一瞬間の苦痛だったろうと医者はいってますね」  金田一耕助はもういちど、ぐっしょりぬれたパジャマの左の胸に目をやって、うすら寒そうに首をちぢめた。  刺されたひょうしに目がさめたのか、いまにもとびだしそうな目玉をしている。その目玉のガラス玉のように生気をうしなっているのと、かっと開いた唇のあいだから、黒ずんだ舌がすこしのぞいているのが気味わるい。 「凶器はなんです」 「出刃包丁なんですがね。ばあやにきくとこの家のものなんだそうです。われわれが駆けつけてきたときには、まだその出刃包丁が心臓の上につっ立っていたんですよ」  等々力警部はそのときの情景をおもいだしたのか顔をしかめた。 「それで、犯行の時刻は……?」 「だいたい、ゆうべの真夜中ごろ、すなわち十二時ごろから一時ごろまでのあいだだろうというんですがね」 「この家には先生のほかにだれか……? いまばあやさんとおっしゃいましたね。そのばあやさんとふたりきりなんですか」 「ええ、そう、先生のほかにはそのばあやひとりきりなんだ。しかもすこし耳の遠い女でね。お嬢さんが死亡されてから、先生、非常に孤独な生活をしていたんですね」  金田一耕助は暗い目をしてうなずいた。  耕助も恵美子さんというそのお嬢さんを知っていた。美人というのではないが、教養のたかい、|聡《そう》|明《めい》な婦人で、献身的ともいうべき愛情を、畔柳博士にささげていたが……。 「それでいったいこの事件はいつ発見されたんですか」  と、金田一耕助は腕時計を見る。時刻はそろそろ五時だった。 「ああ、その発見がすこしおくれて、午後二時過ぎのことなんですね。それまでにばあやはなんども起こしにきたが、なかから応答がなかった。しかし、まさかこんなこととは思わなかったもんだから、そのままにしておいたんだそうです。ところが昼過ぎになっても起きてこない。そこで心配になってきたもんだから|鍵《かぎ》|穴《あな》をのぞいてみると……」 「ああ、鍵がかかっていたんですね」  と、金田一耕助は入口のほうをふりかえった。そこにはむざんにうちこわされたドアが、がっくり斜めにかしいでいる。 「ええ、そう、逃げだすとき犯人が外から鍵をかけていったんですね。なかなか落ちつきはらったやつですよ。そこでばあやがのぞいてみると、毛布がかけてあったので出刃包丁は見えなかったそうですが、先生の寝相がすこしおかしい。年齢が年齢ですから脳|溢《いっ》|血《けつ》でも……と、そんなうたがいがすぐばあやのあたまにきたわけですね。そこで出入りの大工を電話で呼びよせ、ドアをこわしてもらってなかへはいり、毛布をめくってみてキャッというわけです。年がいもなく……と、いってもむりはないが、ばあや、もう半狂乱のていたらくで、ろくにききとりもできないというしまつです」 「そのとき、電気は……?」 「いや、電気は消えていたそうです。それに、窓にもカーテンがみんな閉まっていたので、午前中は光線のかげんで、鍵穴からのぞいてみても、うすぐらくてよく見えなかったそうです。それが午後になって日がこっちへまわってきたので、こっちの窓からカーテンごしに光線が入ってきた。そこでやっと先生の寝相がおかしいということに気がついたんですね」  それらの窓には全部がんじょうな鉄格子がはめてあり、どの鉄格子にも異状はなかったので、犯人が出入りをしたとすればドアからにちがいなかった。  金田一耕助はもういちど大の字にふんぞりかえった、畔柳博士の肉のあつい精力的な|体《たい》|躯《く》に目をはしらせる。  壮年にして配偶者をうしなって以来、ながい禁欲生活にたえてきた博士の肉体は、その年齢に比較していやらしいほど脂ぎっている。  それにこのベッドはひとり寝るには広すぎるではないか……。 「それじゃ、金田一さん、ここはこのくらいにして、むこうへいってみましょう。ちょっとおもしろいことがあるんですよ」 「おもしろいことって?」 「いや、まあ、いっしょに来て自分の目で見てください。そうすればこの事件が単なる物とりやなんかでないことがわかりましょう」  警部はむつかしい顔をしていた。  金田一耕助が等々力警部の案内で入っていったのは、薄気味悪い畔柳博士の実験室である。  そこには白骨の肉づけに使用された殺風景な手術台を中心として、肉づけされたふたつの首だの、骨格の標本だの、アルコールづけにされた心臓だのと、薄気味悪い品々が、これまた指紋採集用の粉末にまみれていたが、その|一《いち》|隅《ぐう》に鎮座ましますのが復原された|妖《よう》|花《か》マリの蝋美人である。  等々力警部に、 「ほら、あれを……」  と、指さされてはじめて蝋美人の存在に気がついた金田一耕助は、ひと目その頭部へ目をやったせつな、骨も凍るような|戦《せん》|慄《りつ》をおぼえずにはいられなかった。  蝋美人の頭部から顔面にかけて、木っ端みじんに粉砕されているのである。それはもういかなる肉づけの名人といえども、二度と復原できないように、徹底的に破壊されているのである。  つやつやとした黒いビロードのドレスを着て、|椅《い》|子《す》のなかに端座している蝋美人の首から、ぬうっと白い骨がつきたっている気味悪さ。……まるでそれは悪夢を誘うような、一種異様なながめであった。  金田一耕助は額ににじむ汗をぬぐいながら、背筋をつらぬいてはしるつめたい戦慄を禁ずることができなかった。 「ほら、あの|槌《つち》でやったんですよ」  と、等々力警部は手術台の上に投げだしてある、木製の槌を指さした。その槌にもいちめんに指紋をとる粉末がふりかけてある。 「ところで金田一さんは伊沢家で、あの蝋人形を買いとりたいと申し出ていたことを御存じでしたね」 「はあ、存じております」 「ところが博士はそれを拒絶して、見せ物師にゆずりわたそうとしていたんですね。もし、そんなことになってごらんなさい。伊沢家にとっては一大不名誉ですからね。|香《て》|具《き》|師《や》の口のはしにかかって、おもしろおかしく、この蝋人形のいわく因縁をまくしたてられてごらんなさい。伊沢家の恥辱はいつまでもつづく。それは伊沢家のひとびとにとっては耐えられないことであったでしょう。そこにこんどの殺人事件の原因があるんじゃないでしょうかねえ」  等々力警部の説明をききながら、金田一耕助はまたゾクリと体をふるわせた。  立花マリという女は、いったいどこまで伊沢家にたたるのか。死してもなお彼女の執念は、伊沢家につきまとうて、あの政界ならびに教育界の名門を汚辱のふちに誘いこもうというのか……。  金田一耕助は|暗《あん》|澹《たん》たるおもいであたりを見まわしていたが、その目にうつったのは部屋のすみにたてかけてある大きな白木の箱である。 「ああ、あれが軽井沢から立花マリの|亡《なき》|骸《がら》を運んできた箱ですね」  金田一耕助がそのほうへよろうとしたとき、刑事がひとり入ってきた。 「ああ、警部さん、ばあやの杉本もとがどうやら話ができる状態になったんですが……」 「ああ、そう、それじゃむこうの応接間へいって話をきこう。金田一さん、あんたもいらっしゃい」  応接室は実験室と廊下ひとつへだてたところ、玄関のすぐ右側にあり、六畳ほどのひろさのなかに椅子テーブルがおいてあったが、いずれも相当古びていたんでいるうえに、すみにおいた本棚にはほこりがうすく積もっていた。そういう殺風景な情景にも、主婦のいない家庭のわびしさが感じられる。  金田一耕助が等々力警部について応接室へ入っていくとまもなく、|老《ろう》|婢《ひ》の杉本もとが刑事に連れられて入ってきた。  杉本もとはもう六十だろう。白髪まじりの頭髪をきちんと束髪に結っていて、まがい|結《ゆう》|城《き》に半幅の帯をしめ、わりに上品な面立ちの目をまっかに泣きはらしていた。 「どうもたいへん失礼いたしました。年がいもなく取り乱してしまいまして……」  と、ことばすくなに|挨《あい》|拶《さつ》する態度にも、一応行儀を知る女という印象がふかかった。  警部に問われるままに彼女ののべるところによると、杉本もとはもう十数年来、この家に奉公しているとのことだった。  彼女の|良人《お っ と》は畔柳博士が大学に奉職しているころ小使いをつとめていたものだが、子どももなくて良人に死なれた。そこで弟の家に厄介になりながら派出婦をやっていたところが、それより少しまえに夫人をなくしたこの家へやとわれてきた。 「そうして二、三度こちらさまへあがっておりますうちに、お亡くなりなさいましたお嬢さまが、わたくしの身のうえを|不《ふ》|愍《びん》がってくださいまして、うちへ来るようにとおっしゃってくださいましたので……」  と、もとはハンケチで目をおおうた。おそらく不慮の事故で死亡した恵美子のことを思いだしたのだろう。 「それ以来、ふたりきりの住まいなのかね」  と、いう警部の質問にたいして、 「いいえ、去年の夏ごろまでお君さんという女中がいたんですけれど、軽井沢の避暑からおかえりになるとまもなくお暇をだされて、それ以来ふたりでございます」 「軽井沢の避暑からかえると……?」  と、金田一耕助がききとがめて、 「それにはなにか理由でもあったの」 「いえ、それはお君さんのほうから気味悪がって、……先生がああいう実験をおはじめになるということを、新聞社のひとたちからきいたものですから……」  なるほど、わかい女としては白骨とおなじ屋根の下に住みにくかったのもむりはない。 「それでちかごろこの家へ、出入りをするのはどういうひとたちなんだね。伊沢と名乗る人物が、やってきやあしなかったかね」 「はあ、伊沢さんなら昨晩もいらっしゃいました。徹郎さんとおっしゃるかたが……」 「なに、伊沢徹郎が昨夜も来たって?」  と、そばから思わず刑事が口をだして、すばやく警部と顔見合わせた。 「はあ」 「それは何時ごろのことかね」  等々力警部がきびしい顔をしてたずねた。 「はあ、九時ごろのことでございました」 「それでかえったのは何時ごろ?」 「さあ、はっきりとは申し上げられませんが、九時半から十時までのあいだだったのではございますまいか」 「博士はどこでその男に会ったの?」 「この応接室でございます」 「そのときのふたりのようすはどうだったの。|喧《けん》|嘩《か》|沙《ざ》|汰《た》みたいなことにはならなかった」 「はあ、あの……」  と、杉本もとはちょっと当惑したように|躊躇《ちゅうちょ》したが、 「わたしむこうにおりますと、なんだかわめくような声がきこえましたので、あわててここへ駆けつけますと、伊沢さんてかたがとても興奮なすったごようすで……でも、わたしの顔をごらんになると、ものもいわずにかえっておしまいなさいました」 「そのときの先生のごようすは?」 「先生はただわらっていらっしゃいました。そして、伊沢さんがおかえりになると、戸締まりをしておやすみ、自分も寝室へさがるからとおっしゃって。……そうそう、そのとき先生はもうパジャマに着かえていらっしゃいまして、その上からガウンをはおって伊沢さんにお会いなさいましたので……」 「それでおもとさんは戸締まりをして寝たの?」  と、そばから金田一耕助が口を出した。 「はあ」 「それから朝までなにも知らなかったの?」 「はい、なにも存じませんでした」  と、おもとはことばをつよめていった。 「それで、けさはどうだったの? 戸締まりは……?」 「お勝手口と裏の木戸があいておりました。いえ、しまってはいたんですけれど、戸締まりがしてなかったのでございます」 「それでもおもとさんはなんとも思わなかったの」 「いいえ、もちろんびっくりいたしました。それで家のなかをしらべてみましたが、べつに紛失しているものもなさそうなので……出刃包丁がなくなってたなんてこと、てんで気がつかなかったものですから……」 「実験室はのぞいてみなかったの?」 「はあ、あそこへ入ることは禁じられていたものですから……。それにあのお部屋に盗まれるものがあろうとは思いませんから……」 「おもとさんはあの|蝋《ろう》人形を先生が、見せ物師に売りはらおうとしてたって話御存じですか」 「はあ」 「それではいつ、あいてにひきわたす予定になっていたのか知りませんか」  その質問にたいしてそばから刑事が口を出した。 「いや、金田一先生、それならばさっき|香《て》|具《き》|師《や》の後藤というのが、リヤカーをもって人形をひきとりにきたんです。それですから、香具師の手にわたるまえにと……」  と、さすがに刑事もそれ以上いうのはひかえたが、等々力警部はううむと唇をへの字なりにむすんだ。  そのあとで金田一耕助は家のなかを見てまわったが、この家は玄関を中心として、右と左ではっきり洋風と和風にわかれている。  玄関から右は全部洋風で、まずすぐ右がわに応接間があり、その隣が書斎、そこから|鉤《かぎ》の手に廊下が奥へついており、とっつきに実験室、その奥に博士の寝室というふうになっている。  それに反して玄関から左がわは全部和風で、八畳の客間に六畳の居間、それから鉤の手にまがって四畳半があり、そこが杉本もとの部屋である。茶の間と台所と女中部屋が、この和洋の建物のあいだにあり、裏門は台所の勝手口を出たすぐ正面にあたっている。  なるほどこの部屋の配置では、離れのような四畳半に寝ている、しかもいくらか耳の遠い老婢もとに、博士の寝室の出来事がわからなかったのもむりはないと思われた。  伊沢徹郎が逮捕されたという報道が、世間の耳目をおどろかせたのは、博士が殺害されてから、三日めのことである。  この逮捕には十分の理由があった。  実験室から発見された木の槌から男の指紋が検出されたのである。そして、その指紋が伊沢徹郎の指紋とぴったり一致したのだ。  徹郎もすでに覚悟をきめていたのか、逮捕されると率直に、蝋美人の頭部を粉砕したのは自分であると認めた。 「わたしとしてはあの蝋人形が見せ物になって、日本全国引きまわされ、そのつど家の名前が出るということは、とうてい忍びがたいことでした。そこでなんども譲渡がたを博士に懇願したのですが、博士は|頑《がん》としてきいてくれません。しかもあしたになったら見せ物師にひきわたすというのだから、わたしとしては最後の手段をとらざるをえなかったのです。ですから家宅侵入罪ならびに|什器《じゅうき》破壊の罪ならばあまんじておうけいたします。しかし、畔柳博士を殺したなんて、そんな、そんな……」  と、肝心の畔柳博士殺しについては、あくまでも否認しつづけている。  なお、侵入の経路については裏木戸も勝手口も戸締まりがしてなくて、なんなく開いたといい、それは十二時半ごろだったと述べている。この裏木戸や勝手口に戸締まりがしてなかったということは、老婢もとの供述とも一致しているが、これはべつにこじあけたものではなく、内部からだれかが掛け金をはずし、|閂《かんぬき》をぬいたものであった。  それではいったいだれが開いたのか。おもとでないとすると博士以外にないわけである。  そこにひとつの|謎《なぞ》がのこったが、この裏木戸や勝手口がなんなく開いたということが、自分を誘惑し、自分にああいう非常手段をとらせたのだと徹郎はつけくわえたが、それをさらに|敷《ふ》|衍《えん》すればそのことがかれを誘惑して、畔柳博士を殺させたのではないか。  そのことは時間的にも一致したし、ことに勝手口から入ったところが台所になっていて、そこに出刃包丁があったことを思えば、かれにかかる容疑は深刻だった。  ただ、捜査陣として遺憾だったのは、出刃包丁のほうに指紋がなかったので、それを決め手とすることができなかったことである。  しかし、いずれにしても徹郎におおいかぶさる容疑は深刻で、ひいては去年の信造殺しや、マリの変死もかれの責任ではないかと取り沙汰され、こうしていよいよ伊沢家は、世間注視のなかにたたされたが、そのあいだにあって、せっせと麻布|狸《まみ》|穴《あな》にある畔柳邸がよいをつづけるのは金田一耕助である。  この男にはひとつの大きな特徴があった。それは妙にひとなつっこいところである。  はじめ警察がわの人間として、この男を警戒しているような人物でも、たびたび会っているうちに、しだいに警戒心をわすれ、ついうちとけてしまうのである。  それは主としてかれの|容《よう》|貌《ぼう》|風《ふう》|采《さい》からくる一得らしい。  小柄で、貧相で、もじゃもじゃ頭で、しかもいくらかどもるこの男の、かくべつえらそうにも見えない外見が、ついあいてに警戒を解かせるらしい。  畔柳家の老婢の杉本もとも、ちかごろその魔力にとりつかれたひとりらしい。 「おもとさん、ずいぶん桜のつぼみがふくらんだねえ。もうすぐ開くぜ」  おもとの部屋の四畳半で、火鉢をかこんでもととむかいあった金田一耕助は、だらしなく二重まわしのまえをはだけて、のんきそうにたばこの煙をふかせている。 「ほんとにねえ」  と、ほどきものをしていたおもとも顔をあげて庭のほうをみる、|濡《ぬれ》|縁《えん》のすぐそばにある梅はもう散ってしまって、そのかわり|袖《そで》|垣《がき》のむこうにある桜が、いまにもほころびそうにふくらんでいる。 「もう春ですねえ」  と、おもとはなんとなくつぶやいて、またほどきものに目をおとす。 「それにしてもこの部屋は上等だねえ。南と東をうけて……この家のなかではいちばんいい部屋じゃないか」 「ええ、そうおっしゃれば……以前はお嬢さんの居間になっていたんですから」 「お嬢さんがお亡くなりになってから、すぐおもとさんがここへひきうつったの?」 「いいえ、それは去年の秋から。……むこうの女中部屋は一日じゅう日があたらないので、それでは年寄りがかわいそうだと先生がおっしゃってくだすって」 「先生、なかなか思いやりがあるな」  と、金田一耕助はいくらか皮肉にいって、たばこの吸い殼を火鉢の灰につっ立てた。  おもとは無言のままほどきものをしていたが、ちょっと肩がふるえたようだ。彼女は畔柳博士の|親《しん》|戚《せき》のものにたのまれて、事件が片付くまで留守番をしており、夜は屈強の男が泊まりにくる。 「ねえ、おもとさん」  と、金田一耕助の口調はいくらか改まった。 「はあ……」  と、おもとの返事はなぜか不安そうである。 「おもとさんは事件の翌日、裏木戸や勝手口の戸締まりがしてなかったのにもかかわらず、どうしていそいで先生をたたきおこそうとしなかったんだい。いくら紛失物がなさそうだったからって、それじゃ家をあずかるおもとさんとしちゃ、あんまり無責任じゃあないだろうかねえ」 「いいえ。それはずいぶんお起こししたんですのよ。しかし、どうしても先生が起きていらっしゃらなかったものだから。……まさかあんなことが起こっているとは知りませんしねえ」  おもとの口ぶりにはどこか言い訳めいた調子がまじる。半面に春の日ざしを浴びたおもとの白髪が、さびしく光ってふるえている。 「それにしても、二時過ぎまでほったらかしておくのはおかしいよ、ねえ、おもとさん」  と、金田一耕助はうつむいたあいての顔色を読みながら、 「それまでにもちょくちょく、そんなことがあったんじゃあない?」 「そんなことって……?」 「いえさ、宵におもとさんが戸締まりをしておいたにもかかわらず、朝になってみると開いていたというようなことが……」  おもとははっとしたように顔をあげて、金田一耕助のほうを見たが、その顔色は|藍《あい》をなすったように真っ青だった。 「ねえ、おもとさん、正直にいっておくれよ。先生の名誉を思って沈黙をまもっている気持ちはわかるが、それじゃ先生を殺した犯人がつかまらないじゃないか」  金田一耕助を見まもるおもとの目には、恐怖の色がいっぱい浮かんでいた。 「それじゃ、先生は……」  と、おもとはあえぐように、 「うちの先生を殺したのはあのひと、……伊沢徹郎というひとじゃないとおっしゃるんですか」 「どうだろうかねえ」  と、金田一耕助は注意ぶかく、おもとの顔色を見まもりながら、 「先生の寝室には|鍵《かぎ》がかかってたんだろう。先生はいつも寝室に鍵をかけておやすみになるの?」 「さあ、それは……べつにはっきりきまってたわけじゃないようでした。鍵をかけておやすみになるときもございますし、そうでないときもあったようでございます」 「なるほど」  と、金田一耕助はちょっと思案をして、 「それじゃ、翌朝寝室に鍵がかかってたってことは、伊沢徹郎の無実の証明にならないね。先生、鍵をかけずにやすんでいられるところを、徹郎が侵入して突き殺し、逃げるときに外から鍵をかけていったのかもしれないから。……しかし、先生は明かりを消しておやすみになるんだろう」 「はあ、それはいつも……」 「そうすると、こういうことになるね。伊沢徹郎はまずこの家へしのびこみ、台所で出刃包丁をとりあげる。それから先生の寝室へしのびこんで電気をつける。なぜってじつにみごとに心臓をねらってあったから、あれは絶対に暗がりのなかの仕事じゃないね。それから明かりを消して寝室を出て、外からドアに鍵をおろし、隣の実験室へ入っていって、蝋美人をたたきこわして逃げた。……いや、この順序はあべこべかもしれない。まず、実験室へしのびこんで蝋美人をたたきこわし、それから寝室の戸締まりがしてないのに気がつき、急に殺意をおぼえて台所へ出刃包丁をとりにいき、それから寝室へとってかえした。……しかし、どちらにしてもいささか不自然なような気がするね。槌に指紋がのこっていたのに、出刃包丁に指紋がのこっていなかったこと。それに寝室の明かりをつけたってこと。そこまで大胆になれるかどうか。……しかも、全然格闘のあとがなかったということね」 「それじゃ、それじゃ……」  と、おもとは口をパクパクさせて、 「先生はいったいどういうお考えでいらっしゃいますの」 「おもとさん」  と、金田一耕助はきっとおもとの面に目をそそぎ、 「先生はひとりもんのくせになぜダブルベッドに寝るんだい。まさか二十年近くもまえにお亡くなりになった奥さんと、寝ていらしたベッドじゃないだろう。そう古いもんじゃなさそうだから。あのダブルベッドはいつごろから……?」 「きょ、去年の秋から……」  と、おもとの唇がはげしくふるえた。 「つまりおもとさんが洋館や勝手口に近い女中部屋から、いちばん遠いこの部屋へ移ったじぶんからなんだね」  うつむいたおもとの肩がわなわなふるえる。金田一耕助はやさしくおもとの首筋を見まもりながら、 「ねえ、おもとさん。ほんとのことをいっておくれよ。先生のところへときどきだれか会いにくるんだろ。ベッドをともにするひとが……そして、そのひとがかえっていくとき、どうかすると先生が面倒になって、送って出るのを横着なすって。そんなとき、戸締まりがしてないことがちょくちょくあるんじゃない? そして、そんな朝はあんまりはやくお起こししちゃいけないってことを、おもとさんは知ってるんじゃないの」 「それじゃ……それじゃ……そんなひとがやっぱりいるんでございますの」  と、あえぎながらもおもとの顔色には、おびえの色がふかくなる。金田一耕助は心の底を読もうとするかのように、おもとの顔をふかく見ながら、 「それじゃ、おもとさんは知らなかったの?」 「あたし……あたし……」  と、おもとはどういっていいかわからないのを、いいそこなってはならぬと、ひとつひとつことばをえらんで、 「ちかごろになってなんだかようすが変だとは思ったんです。だれか先生のところへ会いにくるひとがあるんじゃないかと……」 「それでおもとさんは、そのことをたしかめてみようとはしなかったの?」 「そんなこと……先生がかくしていらっしゃることを……それにほんとにそんなひとがあるのかないのか、はっきりしないことですし。……でも、先生」  と、おもとはいよいよおびえの色をふかくして、 「もし、そんなひとがあったとして、それじゃそのひとがうちの先生を……」 「いや、まあ、一応考えてみる必要があるからね。それじゃおもとさんはそのひとに、会ったことはないんだね」 「はい。……だいいち、いまもいうとおり、ほんとうにそんなひとがあるのかないのか、ひょっとすると自分の気のせいじゃないかと思ってたくらいですから……」  この気の小さな老婆は、博士のもとへ女が会いにくるということを、はっきりたしかめるのを恐れていたのだ。彼女はわざとそのことから目をそらそうとしていたにちがいない。  突然、おもとが|袂《たもと》を目におしあてて泣きだした。 「お嬢さんがお亡くなりになってから、なにもかも狂ってしまいました。先生はなにかものにつかれたような先生になってしまいました。むかしからだだっ子のようなところのある先生でしたが、それをお嬢さんが上手に手綱をとっていらっしゃったのです。そのお嬢さんがお亡くなりになってから、先生はわたしの手に負えない先生になってしまいました。先生がわたしになにかかくしていらっしゃるとすれば、わたしはそれを見てはいけなかったのです。わたしはわざとそれを見ないようにしてきました」  おもとのすすり泣きをきいているうちに、金田一耕助はしだいに息苦しくなってきた。  聡明な令嬢が死亡して以来、この家は不安定な平衡の上に建っていたのだ。その平衡にいつ|破《は》|綻《たん》をきたすかもしれないという危険を、おもとははやくから気がついていたにちがいない。そして、その破綻のくる日を少しでもさきへのばすためには、さわらぬ神にたたりなしというような、消極的な態度をとっているのがいちばん賢明な策だと、彼女は不安をおしころして目をつむっていたのだろう。  金田一耕助は泣きじゃくっている老婆の肩をかるくたたいて立ちあがった。  それから、そのままかえろうかどうしようかと思案をしたのち、洋館のほうへまわって実験室のなかへ入っていった。  窓という窓が全部閉ざしてあるので実験室は真っ暗である。金田一耕助はスイッチをさがして電気をつけた。  あの|蝋《ろう》人形は証拠品として警察へ押収されたので、いまはもうここにない。がらんとした、殺風景で薄気味悪い実験室……。  金田一耕助はこの実験室になにを期待し、なにを発見しようというのか。かれにもそれはわかっていない。  ただ、いまのかれにわかっているのは、去年の秋、すなわち、畔柳博士が軽井沢から帰京して以来、博士の身辺になにか大きな変化がおこったらしいということである。  まず、博士はダブルベッドを寝室にそなえつけた。それから年若い女中に暇を出し、耳の遠い老婢だけをのこしたが、その老婢も寝室に近い女中部屋から、いちばん遠い離れの四畳半へ追いやった。  と、いうことは、ときどきだれかが……おそらくダブルベッドをともにする女が、ひそかに会いにきていたということを意味するのではないか。  では、その女とはいったいだれか……?  金田一耕助のあたまのなかには、いま恐ろしい疑いが渦を巻いている。  ひょっとするとこの実験室のなかで、世にも大胆な大詐術、一大ペテンがおこなわれたのではないか。  金田一耕助はふとあの大きな白木の箱に目をとめた。それは軽井沢から問題の腐乱死体を運んできた箱である。このまえ、それを見たときも、一個の死体を入れるには、少し深すぎるような気がしたのである。  金田一耕助はそっとその箱のそばへより、壁へむかってななめに立てかけてあるその箱のふたをとってみた。  と、たちまち耕助の目には異様な光があらわれた。  箱の中には深さのちょうど半分ほどのところに、ぐるりと|桟《さん》がうちつけてある。ひょっとするとこの箱は、二重底になっていたのではあるまいか。そして、二重底になっていたとすれば、白骨死体のほかになにが入っていたのだろうか……。  金田一耕助はとどろく胸をおさえながら、|袂《たもと》からマッチを出してすってみた。そして、めらめらと燃えあがるマッチの光で、二重底の底部のほうをしらべてみると、ところどころに小さな穴があいているのに気がついた。  金田一耕助の胸はいよいよはげしく波立ってくる。  ああ、この穴!  ひょっとすると、この穴は息抜きのためにあけられたのではないか。と、いうことはこの二重底の底部にはなにか生き物……ひょっとすると人間が入っていたのではないか。人間が入っていたとすると、いったいそれは何者なのか……。  金田一耕助はなおも穴をしらべてみようと、箱をまっすぐに立てなおした。と、そのとたん、白木の箱と壁のあいだにはさかっていたものが、からからと音を立てて床にころがってきた。  金田一耕助はどきっとして床のものを見なおしたが、それは縦五寸、横三寸五分、深さ三寸ばかりの洋銀の小箱で、ふたの表には色彩画でオランダふうの乙女のすがたがえがかれている。  その色彩画の上にこまかいほこりがいっぱいたまっているところをみると、かなりながいあいだ、いまあった位置におかれていたにちがいない。ふたには鍵がかかるようになっていたが、むりにこじあけたものとみえ、錠前ががたがたにこわれていた。 「いったい、なににつかう箱だろう」  金田一耕助はふたをひらいてなかをのぞいたが、からっぽの箱のなかには、ここにもうすくほこりがたまっていた。  金田一耕助はこの小箱もまた、二重底になっているのに気がついて、思わずぎょっと呼吸をのんだ。そして、あわてて箱の側面をしらべてみて、それがなんであるかはっきりわかった。側面の底部のほうにもうひとつ鍵穴がある。  これはあきらかにオルゴールなのだ!  金田一耕助は興奮のために、口がからからにかわいてきた。全身がわなわなふるえて、|嘔《おう》|吐《と》をもよおしそうになった。  やっとその興奮をおさえつけると、金田一耕助は箱をひっくりかえして底を見た。その底は四本の|捻《ねじ》|釘《くぎ》で箱にはめこまれるようになっていたが、四本の捻釘のうち一本がうしなわれていた。  なにかドライバーのようなものはないかと、金田一耕助はあたりを物色して、すぐに手ごろのメスを見つけた。  そのメスを使って金田一耕助は三本の捻釘をぬきとると、そっと底をはずしてみた。と、なかにつまっているのは金属製の円筒と、ピアノの|鍵《けん》|盤《ばん》のようにずらりと配列されたうすい金属板である。そして、円筒の表面にはいちめんに、小さい突起が不規則に配列されている。  やっぱりこれはオルゴールなのである。そして曲は『乙女の祈り』ではあるまいか。しかし、残念ながら鍵が見つからないので、かけてみるわけにはいかぬ。  金田一耕助はなんとかしてこのオルゴールを、かけてみるくふうはないかと、機械のなかをのぞいていたが、ふとその目についたのは円筒と金属板のあいだにはさかっている、小さい、白いものである。  金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめた。  それからふたたびあたりを物色したのち、ピンセットを見つけて、そっとその小さな、白いものをとりだしたが、そのとたん、金田一耕助の思いもよらぬことがそこにおこったのである。  その小さな、白いものが取り除かれると同時に、円筒がゆるやかに回転をはじめ、その表面に植えつけられた小さな突起が、うすい金属板をはじいていって、そこに甘美な曲をかなではじめた。  しかも、その曲はまぎれもなく、 『乙女の祈り』  の、末章ではないか。  オルゴールはしぜんに鳴りおわったのではなかったのだ。この小さな白いものが抵抗となって、円筒の回転がとまり、不自然に演奏の中止を余儀なくされたのだ。  だが、それにしてもこの小さな、白いものは……?  金田一耕助は甘美なオルゴールの音に耳をかたむけながら、|掌《てのひら》にあるその白い小さなものを凝視していたが、突然、脳天から|鉄《てつ》|串《ぐし》でもぶちこまれたようなはげしいショックを感じてよろめいた。  それはまぎれもなく人間の骨、第一関節から上の小指の骨ではないか。  金田一耕助の脳裏にはまざまざと、左の小指の第一関節から上を失った瓜生朝二の面影が浮かんでくる……。     博士の狂気  |妖《よう》|花《か》立花マリは生きていた!  そして情夫であると同時に蝋美人製作の協力者である、瓜生朝二のもとに潜伏しているところを、警官に襲撃されたという報道を新聞で読んだとき、世間のひとびとはかさねがさねのどんでん返しに、|唖《あ》|然《ぜん》としてことばもなかった。  立花マリは髪を刈りこみ、大きなべっこうぶちの眼鏡をかけ、すっかり男になりすましていたので、ちょっと見たところでは、だれもそれがマリだとは気がつかなかったのである。しかも、立花マリは軽井沢の密林で、自殺したことになっていたではないか。  瓜生朝二はかねてから、この日あることを覚悟していたにちがいない。  ひとを遠ざけたアトリエのベッドのなかで、マリと抱きあっているところへ、どやどやと警察官にふみこまれると、|枕《まくら》の下からやにわにピストルをとりあげた。  マリはしかし、その期におよんでも死ぬ気はなかったらしい。 「いやよ! いやよ! 朝二さん! 死ぬのはいや!」  と、マリは恐怖におもてをひきつらせて、朝二のピストルからのがれようとした。  彼女は軽井沢の密林で発見された死体とおなじく、一糸まとわぬ全裸だったが、それをおおいかくすことさえわすれて、ベッドからすべりおりようとした。 「ばか! ばか! マリのばか!」  と瓜生朝二はいそいでピストルの安全弁をはずしながら、マリの体をしっかりうしろから抱きしめていた。 「おまえはどうせふたりも男を殺しているのだ。生きていられると思っているのか」 「はなしてえ! はなしてえ! だれか……助けてえ……」  瓜生朝二はうしろからマリの体を抱いたまま、ぴたりとピストルをその膚に当て、二発、三発とつづけさまにひきがねをひいた。 「あ、あ、あああ……」  マリの体がベッドのはしから床の上にころがりおちると、瓜生朝二はひきつったような笑いを、等々力警部や金田一耕助のほうへふりむけた。 「どうもお手数をかけました。こいつにひっかかった男はみんなこんなことになるんです。ばかな男の最後のほどを見てください」  と、もういちどひきつったような笑顔を見せると、金田一耕助と等々力警部に一礼をし、それからみずからのこめかみに一発うちこんだ。そして、床に倒れてまだひくひくと|痙《けい》|攣《れん》している裸身のマリの背中の上へ、折りかさなって倒れていったのである。  それは陰惨きわまるこの事件の結末としていかにもふさわしい、目をおおうばかりの|凄《せい》|惨《さん》きわまる光景だった。  立花マリが生きていた以上、あの蝋美人が白骨からの復原でないことはあきらかだった。あれは生きているマリをモデルとして、畔柳博士と瓜生朝二がつくりあげた世間をあざむく大|欺《ぎ》|瞞《まん》、一大ペテンだったのだ。  しかし、それでは佐藤亀吉のあの供述はどうなるのか。  未決へ収容されていた亀吉は、もういちど等々力警部のまえへひきだされて取り調べられた。  はじめのうちかれはあくまで最初の供述を固執していたが、立花マリが生きて発見されたこと、ただし、その直後に瓜生朝二に殺害されたこと、また畔柳博士も殺害されて、もはやこの世にないひとであることを知らされると、はじめてかれはまえの供述をひるがえした。そして改めて新しい供述をしたが、あとになってみると、その新しい供述というのも、どこまで信用してよいのかわからなくなった。  と、いうのは佐藤亀吉はそれからまもなく発狂したのだが、発狂してからのかれの口走ることばと、かれの二度めの供述とのあいだに矛盾するところが多かったからである。  二度めの供述によるとこうである。自分は畔柳博士に買収されたのである。ああいう大芝居をうってくれれば、出獄後の生活いっさいを保障すると畔柳博士が申し出て、マリの着衣その他を自分に提供したのである……と。  この供述を信用すれば、死体の着衣をはいだことも、また死体にいたずらをしたということも、いっさい畔柳博士の創作になり、亀吉はただ畔柳博士のタクトのもとに踊っていた人形ということになる。  ところが、その後気が狂って、しばしば口走るかれのことばに耳をかたむけると、かれは月のよい晩に、密林のなかで女の死体を抱いたことを述べ、またしばしば立花マリの肉体のうつくしさ、すばらしさについて|憧《どう》|憬《けい》の嘆息をもらした。  だから、それらの繰り言を総合して、つぎのように考えるのが真実に近いのではないかと想像されている。  すなわちはじめのかれの供述には半分の真実のなかに、半分のうそがまじっていたのではないか。そして真実の部分というのは、死体にたいする|凌辱《りょうじょく》行為で、うその部分はあいてを立花マリとしたことだ。  かれはこのあさましい行為を畔柳博士に発見され、脅迫され、それからひいてあの陰謀に加入することになったのではないか。そして、その代償としては、出獄後の生活保障のみならず、マリの肉体が提供されたことがあるのではないか……。  だが、もうたしかめようもないこれらのことにたいする、|徒《いたず》らなる|詮《せん》|索《さく》|沙《ざ》|汰《た》はこれくらいにしておこう。  さて、瓜生朝二と立花マリの事件があってから三日めのこと、満面によろこびの色を浮かべた雄島隆介が、金田一耕助のもとへ礼に来た。  金田一耕助はてれくさそうな|表情《かお》をして、この正直で善良な男の賛辞をきいていたが、やがてにこにこしながら、 「いや、結局、これはきみの手柄ですよ。きみがあのオルゴールの音をきいていたということが、事件の解決にみちびいたのですからね」 「しかし、先生、あのオルゴールには、いったいどういう意味があったのでしょう。あんな際にオルゴールをかけるなんて……」 「いや、あれはおそらくあいびきの合図だったんでしょう。つまり『乙女の祈り』の音楽がきこえると|良人《お っ と》は留守だから忍んでこいという合図だったんじゃないですか」 「あ、なるほど」  と、ひとのよい雄島隆介は目をまるくする。 「それを信造兄さんがなにげなくかけたというわけですか」 「いや、なにげなくというよりは、信造氏はうすうすそれに感づいていたんじゃないでしょうか。それでマリを外出させ、情夫を誘いこもうとした。……つまり、それによって|姦《かん》|通《つう》の実証をおさえようとしたんじゃないでしょうかねえ」 「なるほど、なるほど。きっとそうです。それを知らずに瓜生朝二が忍んできた。そこであの恐ろしい格闘になったわけですねえ」 「え、そう、そして、その格闘の際に信造氏は瓜生朝二の小指をかみきった。しかも、瓜生が逃げさったときには、まだ死にきってはいなかったので、後日の証拠にとその小指を、枕元にころがっているオルゴールのなかへねじこんだ。きみも目撃したように、テーブルの上から落ちたひょうしに、オルゴールの底板がすこしはずれていたので、そのすきから小指をねじこんだんですね。それでオルゴールの回転がとまり、『乙女の祈り』の楽の音がやんだ……」  雄島隆介はうなずいて、そっと額の汗をぬぐった。いまさらのようにあの夜のことを思い出したのだろう。 「それから……そこへマリさんがかえってきたんですね」 「そうです。そうです。マリは途中で瓜生朝二に会ったのかもしれない。いや、会わなくったって、オルゴールがそこへ出ているところから、良人の計画に気がついたのでしょう。そうすれば、だれが良人を刺したかすぐわかる。そこでマリは改めて虫の息でいる良人を刺し殺した……」 「マリさんが、信造兄さんを殺したというのはほんとうでしょうねえ」  と、雄島隆介は身ぶるいをして、また額の汗をぬぐった。 「どうやらほんとうのようですね。瓜生朝二が最後に口走ったところによってもね」 「それからオルゴールをもって逃げたんですね」 「そうそう。ただしそのなかに愛人の罪の証拠になる、小指が入っているとはゆめにも知らずに……ただ、だいじな宝石箱としてもってにげたのでしょうねえ」  ふたりはしばらく無言のまま、ぼんやり窓外に目をやっていたが、やがて雄島隆介は|臆病《おくびょう》そうな目を金田一耕助にむけて、 「それで畔柳博士はいつじぶんから、マリさんや瓜生朝二と知り合ったんでしょう」 「それはおそらく軽井沢でしょうねえ。マリは軽井沢にある瓜生の別荘にかくれていたんでしょう。だれもマリと瓜生の関係を知るものはなかったので、わりにたやすく潜伏していられたんですね。それをなにかのひょうしに博士に知られた。ところがいっぽう、ああして正体不明の女の腐乱死体が発見されたので、ああいう大芝居がうたれたんですね」  金田一耕助はくらい顔をしてためいきをついた。 「それはやはり、伊沢のおばさんにたいする|復讐《ふくしゅう》で……?」 「それもありましょう。だが、それと同時に世間をあっといわせて|快《かい》|哉《さい》をさけんでいようという、悪魔のようないたずらごころも手つだったんでしょうね」 「しかし、もしそれが露見したら……?」 「雄島君」  と、金田一耕助はものがなしげな目でまじまじと、隆介の顔を見まもりながら、 「畔柳博士は狂っていられたんですよ。長年にわたる不自然な独身生活にかててくわえて、令嬢の突然の死という大きなショックが、先生の精神を狂わせたんです。そこへもってきてマリのような女怪にひっかかったもんだから、先生は完全に気がくるっていられたんですよ」  金田一耕助はそういって、ふかい、暗いためいきをついたのである。    首      一 「ほら、あの岩なんですがね。滝の途中にひらたい岩が突き出してるでしょう。あれがすなわち、さっきお話しした問題の獄門岩なんですがね」  と、岩をえぐって流れる渓流のほとりに足をとめて、ふといステッキで前方を指さしたのは、岡山県の警察界でも、古狸とよばれる磯川警部。きょうはずんぐりと肥満した|短《たん》|躯《く》に、粗いスコッチのニッカーをはき、ともぎれのハンチングに肩からカメラをぶらさげていようという、うちくつろいだ姿である。  その警部の背後に立って、 「なるほど」  と、ぼそりと答えたのは金田一耕助。例によってよれよれのきものに、ひだのたるんだ|袴《はかま》に風をはらませて、もじゃもじゃ頭の首筋に、じっとりと汗ばむほどの陽気である。 「つまり、あの岩の上に十右衛門という義民の首が、ちょこなんとのっかっていたというわけなんですね。いまから三百年ほど前に……」  最後の一句を口にだすとき、金田一耕助はいたずらっぽく目をしょぼつかせ、ことばの調子にも、いくらか皮肉なひびきがこもっていた。  警部もそれに気がついたのか、 「さよう、さよう、三百年ほどまえにな。あっはっは」  と、太い|猪《い》|首《くび》をすくめて笑うと、またゆっくりと歩きだす。  そこは道というよりは、野獣の通い路のような、岩だらけの|険《けん》|岨《そ》な急坂で、肥満して、腹のつん出た磯川警部にとっては、よくよく苦手とみえ、フーフーいいながら、しきりにハンケチで汗をふいている。  金田一耕助はおかしくもあり、気の毒にもなった。 「警部さん、警部さん、あの滝へいくにはこの道しかないんですか。谷のむこうにもっとよい道があるようですが……」 「ええ、そう、ふつうはあっちの道をいくんだが、それだと|滝《たき》|壺《つぼ》のそばまでいかんことには、ほら、あの|屏風《びょうぶ》岩のかげになって問題の獄門岩がよう見えんのでな。あんたにひとつあの岩を、よく見ておいてもらいたいと思うて、わざわざこっちの道を案内したんだが……」 「三百年まえの事件のためにですか」 「ええ、まあ、そうじゃな。あっはっは」  磯川警部のはじけるような笑い声が、眼前にせまる滝の音や、岩をかむ渓流のひびきにまじって、谷から谷へとこだまして、その静けさのなかに秋の深さがしのばれる。あたりはもういちめんの紅葉だった。  そこは岡山県と兵庫県の境に近い山里から、さらに十数丁奥へ入った山中で、ふたりがいま、木の根、岩角をふみこえてのぼっていく道の右側には、ふかい|谿《けい》|谷《こく》がまっさかさまに突きおとし、その底をかなりゆたかな水量が、岩をかみ、|滔《とう》|々《とう》たる音をたてて奔騰していく。その谿谷の奥にかかっている問題の名主の滝は、もう指呼の間にせまっていた。 「じっさい、あの三百年まえの事件というのからして、不思議じゃな。だれが名主鎌田十右衛門をあやめたのか、いまだに|謎《なぞ》になっているんだからな」 「それはしかし、藩のほうから刺客をはなって……」 「まあ、それがいちばん常識的な考えかただが、そうも割りきれんふしもあるんですな。十右衛門を殺害すれば、|一《いっ》|揆《き》が爆発するちゅうことはわかりきってる。それよりも十右衛門を人質として生かしておいたほうが、藩としても農民相手の折衝に、よほど有利な地歩をしめることができる。……ちゅうくらいのことは、子どもにだってわかるはずだし、じじつまた、十右衛門が殺害されたという報がつたわったときには、家中一同|愕《がく》|然《ぜん》として色をうしなったという記録が、いまもなおのこってるくらいだからな」 「と、すると、だれが十右衛門を……?」 「だから、ちかごろ郷土史家のあいだでは、農民のなかの過激分子がやったんじゃないか。つまり、農民から神様のように尊敬されている十右衛門を殺害し……それもできるだけむごたらしく殺害することによって、農民たちの藩公にたいする憎悪と戦意をあふりたてようとしたんじゃないか。……と、だいたいこんなふうに意見が一致してるようですな」 「なるほど。いつの世にも策士はいるもんですな。それでその作戦、まんまと図にあたったというわけですか」 「そうです。そうです。それまで|膠着《こうちゃく》状態をつづけていた藩と農民たちのにらみあいが、この十右衛門殺害一件を契機として、一時に爆発したんですからな。これがなければ藩がわの切り崩し運動が奏功して、農民たちも腰くだけになっていたかもしれんのです。それが十右衛門のさらし首を動機として、それ十右衛門様の|讐《あだ》を報じよというわけで、百姓たちがいっせいに決起したから、さあ、御領内は|蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。これが寛文四年|甲辰《きのえたつ》どしの出来事で、このへんじゃ甲辰一揆として、いまだに語りぐさになってるほどの大騒ぎだったんですな。ああ、ここから滝壺へおりましょう」  数丈にあまる名主の滝は、いまやふたりの|眉《まゆ》の上にせまっており、百雷のとどろきにも似た滝の音は、耳も聾せんばかりで、警部の声もよく聞きとれぬくらいである。 「気をつけてください。滑ると危ないですからな」 「はあ、大丈夫です」  足下に階段状にきざまれた岩をおりていくと、ちょうど滝壺のまえへ出る。この滝の右側には|袖《そで》|垣《がき》をめぐらせたように、屏風岩が|屹《きつ》|立《りつ》しており、その屏風岩のなかほどから、たたみ二畳は敷けそうな平らな岩が滝のなかへ突き出している。滝はその岩のはしを洗ってそこからふた筋にわかれて、ほとんど垂直に落下しているのである。滝の周囲を|点《てん》|綴《てい》する紅葉の色が美しかった。 「なるほど、あの岩の上に、名主、鎌田十右衛門の首がのっかっていたってわけですか」 「そうそう。この滝の水上に|土《つち》|牢《ろう》があるんですが、農民の態度がおいおい険悪になってきたので、藩のほうではいちはやく、かれらのあいだにいちばん人望のある名主十右衛門をひっ捕えて、その土牢のなかへ押しこめたんですね。ところが、ある朝、藩のものが見まわりに来ると、土牢の番人が切りころされていて、十右衛門のすがたが見えない。そこで大騒ぎになってさがしたところが、十右衛門は首と胴とを切りはなされて、首はあの岩の上にのっかっており、胴のほうはいまわれわれの泊まっている熊の湯から、少し下手の淵に浮いていたというんです。それ以来、あの岩を獄門岩、胴体の浮いていた淵を、首なしの淵と呼びならわすようになったというわけです」  金田一耕助は興味ぶかい目で磯川警部の横顔を見まもっている。  このような古い昔話をきかせるために、警部がわざわざこんな場所まで、自分をひっぱってくるわけがない。そこにはもっとべつの、さしせまった理由がなければならぬはずだが、それはいったいなんだろう。そして、そのことと三百年まえにおこった事件と、なにかつながりがあるのだろうか……。  そこはまえにもいったように、岡山県のうちでも兵庫県にちかい県境の、ローカル線のどの駅からでも、バスにのって小一時間、さらにバスの停留場から、峠をこえてこれまた小一時間は歩かねばならぬような、山の中の|辺《へん》|鄙《ぴ》な一部落なのである。  それではなぜまた金田一耕助がこのような場所へ顔を出したかというと、それはこういうわけである。  大阪のほうに事件があって、その調査を依頼された金田一耕助が思いのほか事件がはやく片付いたので、ここまで来たついでにと足をのばして、やってきたのが岡山市。『獄門島』や『八つ墓村』でなじみのふかい、旧知の磯川警部を訪れると、警部はまるで地獄で仏にあったようなよろこびようだった。  そして、金田一耕助から、どこか静かなところで静養したいのだが……と、相談をうけると、警部はいよいよよろこんで、それには理想的な場所がある、自分もお付き合いしてもいいんだからと、うむをいわさずひっぱってきたのが、この不便な山里にある「熊の湯」というひなびた湯治場。  ところがさて、さっきこの山里へ足をふみいれて、ふたりが驚いたというよりも、むしろ失望したというのは、静かなるべきこの山里が、きょうはなにやら、ごったがえすようなにぎわいを呈しているのである。いや、にぎわいを呈しているというよりも、だれもかれも浮き足立って、活気あふれる感じである。 「どうしたのかな。なにかあるのかな」 「祭りかなんかじゃないんですか」 「祭りなら太鼓の音でもきこえそうなもんだが……」  熊の湯というのはこの山間の一部落から、少しはなれたところに位して、ひなびてはいるが古めかしい、いかにも由緒ありげな家の構えである。ここはこの近在の農民たちが、農閑期の骨休めをするのに、おあつらえむきの湯治場になっているのである。  その熊の湯のだだっぴろい玄関に立って、磯川警部と金田一耕助はまたふっと顔を見合わせた。家のなかがなんとなくざわめきたち、廊下を行き来する客のかずも多かった。 「はてな、団体客でもあるのかな。まだ農閑期にははやい季節だが……」  きょうは十月二十三日、たとえ収穫はおわったとしても、農民たちはまだ脱穀に|大童《おおわらわ》な季節である。それに廊下を行き来する客のすがたの華やかさが、まんざらのお百姓とも思えない。  磯川警部が二、三度おとなうと、やっと奥から十六、七の小女が走り出てきて、式台の上に手をつかえた。 「ああ、菊ちゃんじゃないか。二、三日泊めてもらおうと思ってやってきたが、ええじゃろうな」  警部から名前をさされて、小女はびっくりしたように目をみはった。 「あの……どなた様で、いらっしゃいましたでしょうか」 「あっはっは、見忘れたのかな。去年岡山からやってきた磯川という警部じゃがな」 「あら!」  菊はまたはっと目をみはると、みるみるうちに血の気がひいて、式台につかえた両手が、かすかにふるえた。 「あっはっは、なにもびっくりすることはありゃせん。だいぶん客がたてこんでるようだが、ふたりくらい泊まる部屋はあるじゃろうがな」 「はい、あの、少々、お待ちなすって……いまおかみさんに申し上げてまいりますから」  菊は逃げるように奥へひっこんだが、おかみさんというのはなかなか現われなかった。 「警部さんは去年もここへ来られたことがあるんですか」 「ああ、ちょっと……」  と、ことばをにごす警部の横顔を、金田一耕助がさぐるように見ているところへ、奥から出てきたのは五十五、六の中老婆。髪こそだいぶん白くなっているが|色《いろ》|艶《つや》もよく、太り|肉《じし》の|恰《かっ》|幅《ぷく》がこの熊の湯の女あるじの|貫《かん》|禄《ろく》十分というところだった。 「あら、警部さん、いらっしゃいまし。なにかまた……」 「ああ、おかみさん、しばらく。なあにね。こちら東京からいらしたんだが、どこか静かなところで、二、三日静養したいとおっしゃるんで、ふとこちらを思い出したというわけだ。泊めてもらえるだろうな」 「はあ、あの、どうぞ。……あいにく母屋のほうはふさがっておりますんで、いま、菊に離れをお掃除させておりますんですけれど……」  と、おかみがさきに立って案内したのは、母屋から渡り廊下ひとつへだてた離れのひとかまえだった。いままで雨戸がしめきってあったとみえて、いくらかかび臭いにおいがしないでもないが、雨戸をひらくとすぐ目の下は岩をかむ渓流で、そのむこうに紅葉におおわれた山が迫っているのがすがすがしい。 「ああ、ここは道子さんの居間だったところだね」 「はあ、あいにくどこもかしこもふさがっておりますので……明日になると母屋のほうがあくと思いますが……」 「いや、繁盛でけっこうだが、どういうお客さん? 都会のひとのようだね」 「はあ、映画のほうのかたで……ロケーションとやらにいらしたんです」 「ほほう!」  と、磯川警部は金田一耕助と目を見かわせて、 「それは、それは……もうながく|逗留《とうりゅう》してるの」 「はあ、なにしろ、このあいだからの長雨で……それでもやっと一昨日から晴れましたので、どうやらお仕事のほうもはかどったらしく、きょうはあらかたお引き揚げになる御予定でございます」 「あらかたというと、みんなじゃないの」 「はあ、なんでも五、六人はあと二、三日、おのこりになるとかいう話で……」 「こらまた、えらいところへ来合わせたな」  磯川警部が苦笑をもらしているところへ、女中がおかみを呼びにきた。なんだか母屋のほうで用事があるらしい。 「ああ、そう、それじゃすぐにいきますから。……|旦《だん》|那《な》様、お風呂をおめしになりますか」 「そうだな。いま何時かしら」  と、警部は時計を出してみて、 「ああ、まだ三時だな。金田一さん、ちょっとそこらをぶらついてこようじゃありませんか。おかみさん、お風呂はそれからにしよう」  と、一服するまもなく、警部が金田一耕助を、ひっぱってきたのがこの名主の滝のまえである。      二 「ところで、警部さん、そのときの一揆は結局どう片がついたんですか」 「いや、それはね。農民がわにも相当大きな犠牲者が出たが幕府の隠密かなんかが入ったのだな。御領主様のほうも藩政よろしからずとあって半知をけずられお国替えになった。そのあとへ来た御領主様というのが、お慈悲ぶかいかただったので、結局、農民がわに|凱《がい》|歌《か》があがったも同様ですな。そこであとからいらした御領主様のお許しをえて、十右衛門さんをおまつりしたのが、ほら、さっき熊の湯へ来る途中、右手に見えていたあのお社で、国士様というんだが、このへんじゃクニシン様と呼んでますな」  右手にそびえる|屏風《びょうぶ》岩と、屏風岩の上にからかさをひろげたように枝をはっている赤松が、太陽の光をさえぎっているので、|滝《たき》|壺《つぼ》のまえに立っていると、秋の冷気が身にしみわたる。おりおり風のかげんで、霧のような滝の|飛沫《し ぶ き》が、ふたりの頭上から降ってくる。金田一耕助思わずぶるると身をふるわせた。 「それじゃ、もう少し上手へのぼってみましょう。この滝の上流に十右衛門の押しこめられていた|土《つち》|牢《ろう》の跡があるんです」  金田一耕助はさぐるように警部の顔を見たが、なにもいわずにそのままあとについていく。  警部は滝壺のまえをよこぎって、屏風岩のふもとの坂をのぼりはじめたが、そのとき岩のむこうから、がやがやと人の話し声がきこえてきて、女優さんとおぼしい女をまじえた五、六人の一群が、どやどやと坂をおりてきた。一同はふたりの姿に気がつくと、思いがけないところで、思いがけない人物を見たというように、おやと目をみはったが、すぐそのままふたりのそばを駆けぬけて、滝壺へおりていくと、 「ほら、あの岩だぜ。去年、熊の湯の養子の首が、ちょこなんとのっかっていたというのは……」  と、なかのひとりが叫ぶのをきいて、金田一耕助は思わずドキリとその場に足をとめた。 「いやよ、吉本さん、そんな気味の悪いこと。……それよりはやくかえりましょうよ。もうそろそろバスが迎えにくるころよ」 「まだ、はやいさ。出発は、四時半ということになってるんだからな。ところで、胴のほうは首なしの淵に浮いていたというんだね」 「そうそう、なんでもずっとむかしにも、そんなことがあったそうだ。首だけこの岩にのっかっていて、胴のほうは首なしの淵に浮いていた……と、そんなことがあったそうだ」 「いや、いや、もうそんな気味の悪い話」 「しかし、そりゃ流れの関係で、結局流れよるところはひとつなんだね。だけど、ここからじゃ、たとえあの岩の上に首がのっかってたとしても見えないね。よっぽどはしっこのほうにのっかっていないことにはね」 「それで、その事件の犯人はまだつかまらないのかい」 「ああ、迷宮入りだって話だ。なんだか神様のたたりじゃないかといってたぜ。熊の湯のおかみさんがさ」 「まあたたりにしときゃ世話はないさ。どうせここいらの警察じゃ、手のこんだ犯罪なんか解けっこないさ」 「金田一さん、いきましょう」  磯川警部は苦笑を浮かべて、ゆっくり坂をのぼりはじめる。金田一耕助もそのあとにしたがったが、はじめて警部の真意がどこにあるのか、わかるような気がして苦笑いをもらした。これではまた休養にならないかもしれぬ……。  屏風岩の背後の急坂をのぼりつめると、急に、眼界がひろくなった。ひろい、岩だらけの河床を、幾筋かにわかれた流れが縫うていて、その谷をはさむ左右の山々も、さきほどから見るとよほどうしろに後退している。  警部はその谷川に沿うた道を、無言のままてくっていたが、やがて三丁ほど来たところで、道の右がわにあるせまい石段をのぼりはじめた。石段の数は五十段あまり、そこをのぼると五十坪ほどの台地になっていて、その台地の奥に岩をくりぬいた大きな穴があり、穴の奥になにやら仏像のようなものが安置してある。 「これがそのかみの土牢の跡なんですがね。十右衛門はここに押しこめられているあいだに、いまのことばでいえば栄養失調とでもいうんでしょうな。失明していたそうだ。それでのちのひとがあそこにあるように、お薬師さんをおまつりして、目の悪いもんが、ここにおこもりしてたそうです。ほら、穴のなかに床がつくってあるでしょう。あれがつまりお|籠《こも》り堂だったわけだが、それも戦争まえまでのことで、戦後はそういう信仰もすたれてしもうて、このお籠り堂へこもるひともなくなっていたんですが、それが去年の秋……」  と、いいかけて、磯川警部は口をつぐんだ。 「去年の秋……?」  金田一耕助が物問いたげな視線をむけると、警部は渋面をつくって、 「いや、ちょっとあの穴のなかへ入ってみようじゃありませんか」  土牢の跡は十畳敷きくらいの穴になっているが、その左手に四畳半くらいの穴が|瘤《こぶ》のようについており、そこに板の床がつくってあったが、もう相当ながいあいだ放置してあるとみえて、かなり腐っていたんでいる。  警部はステッキのさきでその床をトントンたたきながら、 「去年の秋、この穴のなかで三人の男がひと晩あかしたんです。ところが朝になってみると、そのうちのひとりの姿が見えなくなっていた。そこで大騒ぎをして山じゅうさがしていると……」 「首が獄門岩にのっかっており、胴のほうは首なしの淵に流れよったというわけですか」  警部はじろりと金田一耕助の顔を見ると、 「ええ、そう」  と、暗い目をしてうなずいた。 「それが熊の湯の養子だったというわけですね」 「ええ、そう」  と、警部はまた暗い目をしてうなずいたが、急に腹立たしげな視線を金田一耕助にむけると、 「里のもんはその事件を、クニシン様のおたたりじゃというて片付けとる。いや、片付けようとしているんです。しかし、われわれはそれですませるわけにはいかん。犯人をあげて真相をつきとめねばならん。しかし、いまもって犯人をあげることができんのです。だから、さっきみたいに、どうせ田舎の警察じゃといわれる。いや、いわれてもいたしかたのないしまつですて」  磯川警部はがっかりしたように、ふとい|猪《い》|首《くび》をすくめてみせる。よほどこの事件の失敗が、心魂に徹しているらしい。  金田一耕助は休養という二字が、遠くかすかにボヤけていくのを感じながら、それでも警部をなぐさめるように、 「どういう話なんですか、警部さん、きかせてください。被害者はここで殺害されたんですか」 「いや、どこで殺害されたのか、それすらわかっていないんです。だが、その話は宿へかえってからにしましょう。あんた、ここでは寒いんじゃろう」 「はあ、いささかね」  土牢の跡を出て、谷川のほとりの道をくだってくると、右側の屏風岩のてっぺんに赤松の大木がからかさのように枝をひろげていて、その上に烏が五、六羽とまっている。金田一耕助はなに思ったのか、|蛸《たこ》のように大きく脚をひろげている赤松の根もとをのぼりはじめた。 「金田一さん、どうするんです。危ないですよ」 「警部さん、この屏風岩のてっぺんから、獄門岩は見えませんか」 「見えないことはありません。腹ばいになればね。だけど危ないですよ。気をつけなければ……」 「なあに、大丈夫です」  と、こんもりと盛りあがった屏風岩のてっぺんへ駆けのぼると、金田一耕助は赤松の根もとに腹ばいになって下をのぞいたが、目の下約二丈ばかりのところに、獄門岩が突き出していて、滝の飛沫をはねっかえしている。水にぬれた岩の色がうつくしかった。 「警部さん、その首、どうだったです。滝の上流から流れてきてあの獄門岩に、ひっかかったとすると、相当傷がついてるはずだが……」 「ええ、そう、相当傷はついてました。胴体のほうにもね。だけどどのへんから流れてきたものか、ちょっと見当がつかんのです」 「首だけここから突きおとしたってことを考えられませんか」  警部はギョッとしたように、腹ばいになった金田一耕助のうしろ姿を見まもっていたが、 「それは……?」  と、ちょっと呼吸をのんで、 「しかし、犯人はなんだって、そんなことをしなけりゃならなかったんです」 「さあ、それはぼくにもわかりませんが、しかし、その可能性は考えられないことはないんですね」  金田一耕助は泥をはらって立ちあがると、|唖《あ》|然《ぜん》としている磯川警部を|尻《しり》|目《め》にかけて、 「さあ、警部さん、かえりましょう」  と、さきに立って屏風岩をくだっていく。警部はしばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》としてその場に立ちすくんでいたが、やがて夢からさめたように、考えぶかい目付きになって、金田一耕助のあとを追っていった。  宿へかえると表に大型のバスがとまっていて、すでに乗りこんでいる十五、六名の男女が、にぎやかにはしゃぎまわっている。なにしろ口の達者な映画人のこととて、その騒々しいことといったらない。バスの外は黒山のひとだかりだが、なかにひとり女優とおぼしいきれいな女が、若い男と立っていて、なかに乗りこんでいる女と窓ごしに話をしている。  やがて出発の合図があると、 「それじゃ、香川さん、おさきに……」 「千代ちゃん、気をつけなきゃあいけないぜ。里村先生をな」 「あっはっは、ちがいねえ。お千代の出番だけ、撮りのこしておくなんて、里村先生も考えたね」 「土井君、頼んだぜ。お千代ちゃんをな。その|娘《こ》、まだ|初心《うぶ》なんだからな」 「なあに、大丈夫だよ。内山君ものこるんだから。内山君、むざむざお千代を里村先生にわたしゃあしないさ」 「あっはっは、とんだ|鞘《さや》当てだな。じゃ、さようなら」 「さようなら」  騒々しい|嬌声《きょうせい》をあとに残してバスが出ていくと、香川千代は燃えるような顔色で、門のなかへ駆けこんでいく。土井と呼ばれた若い男は、むっつりと唇をむすんでそのあとからついていく。  金田一耕助は磯川警部と目を見かわしたのち、ゆっくりとふたりのあとから門のなかへ入っていった。  いまきいた里村先生という名前から、ここへ来ている監督が、あの有名な里村恭三であろうことを金田一耕助は知った。  里村恭三というのは女優を掘りだし、育てるのに妙を得ているがそれと同時に色好みでも有名だった。里村監督に発見された女優はかならずいちどは、かれに肉体をささげなければならぬといわれている。  香川千代という女優は、いままでいちどもきいたことがないが、おそらく彼女も里村監督に見いだされた新人なのだろう。そして、彼女が里村監督に許すかどうかが、いまスタジオ雀の話題の中心になっているらしい。  金田一耕助はいまちょっと|瞥《べっ》|見《けん》した香川千代の、まだやっと女になったばかりというような、|可《か》|憐《れん》な|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》を思い浮かべて、妙に哀れをもよおしたが、しかし、それはそれでよいではないかと、自分で自分の取り越し苦労がおかしくなる。  離れへかえると女中の菊が、お風呂へ御案内しましょうと、|浴衣《ゆ か た》とどてらをもってくる。それに着かえて湯殿へいったが、警部の長湯にひきかえて、金田一耕助はからすの行水である。いいかげんに湯からあがると、さっさとからだをふいて、 「おさきに」  と、ひとりで離れへかえってきた。  いつのまに生けたのか、床の間に大輪の菊が生かっていて、かぐわしいにおいを放っている。障子をあけっぴろげてあるので、さっきのかび臭いにおいはだんだんうすらいでいた。  たばこを吹かしながら縁側に立つと渓流をへだてたむこうの山は、もうすっかり暮色につつまれて、遠くの木の間にちらちらと灯の色が見える。あんなところにもひとの住む家があるのだろうかとぼんやりとそのほうを見ているうちに、急に寒けをおぼえたので、部屋のなかへ入ろうとすると、まだ電気をつけぬ座敷のなかを鼠の走るのが見えた。 「しっ! しっ!」  と金田一耕助が小声で追うと、鼠はあわを食ったように床柱をよじのぼり、あっというまに、|床《とこ》|脇《わき》の上にかかっている額のうしろへとびこんだ。と、思うと額のうしろの戸袋の天井のあたりで、がさごそと紙の音がする。 「ははあ、あの額の裏に穴があるんだな」  金田一耕助は電気をつけると、床脇の上の戸袋をひらいてみた。見ると、その戸袋の天井の板が少し横へずれていて、そのすきまから|藁《わら》が一本、それから紙のはしがのぞいている。その紙になにか書いてあるようなので、金田一耕助がたぐりよせると、巻紙のはしの五寸ばかりにちぎれたのが出てきた。  それを電気の下へもってきて|皺《しわ》をのばすと、うつくしい女の筆跡で、 「一筆書きのこし申し候」  と、あるので金田一耕助は思わずぎょっと呼吸をのんだ。あわててあたりを見まわしたのち、ふたたび巻紙のはしに目を落とすと、 「わたしこと思いみだれ、心狂い、生きるにかいなき身に候こと、つくづくちかごろさとり申し候。ただ気がかりなは坊がこと、それのみよみじのさわりになり申し候えども……」  と、そこであとはぶっつり切れている。  金田一耕助はまたあたりを見まわして|唾《つば》をのんだ。これはあきらかに書き置きである。耕助はいそいで戸袋のまえへ引きかえすと、つま先立って天井のすきからなかへ手をいれ、あとはないかと探ってみたが、手にさわるのは|藁《わら》|屑《くず》とほこりばかり。  そのとき、縁側に足音がきこえたので、耕助はあわてて戸袋の戸をしめた。      三  夕飯がおわって女中の菊がお|膳《ぜん》をひくと、磯川警部は酒にほてった顔をてらてら光らせながら、うっとりとした目でつま|楊《よう》|子《じ》をつかっている。金田一耕助は桐の|手《て》|焙《あぶ》りをひきよせた。警部はいくらか汗ばみぎみだが、あまり多く酒をたしなまぬ金田一耕助は、火鉢をそばへひきよせぬと、もう山里の夜はしのげない。  母屋のほうにはまだ客がいるはずだが、妙にひっそりとしずまりかえって、裏を流れる渓流の音ばかり耳につく。 「で……?」  しばらくしてから金田一耕助はうながすように警部の顔を見た。 「で……?」  と警部は|鸚《おう》|鵡《む》がえしにそうつぶやいて、金田一耕助の目を見かえしたが、急にいきいきとした目つきになると、 「いや、承知いたしました。それじゃお話ししますからきいてください。こういう話なんですがね」  と、つま楊子を灰皿のなかへ投げすてて、ピースの箱をひきよせながら、警部が語りだしたのはつぎのような話である。  さっき玄関へ出迎えたおかみさんのお幾というのは、実際はここの女あるじではなく、先々代の妹にあたる。若いころいちど他へ嫁したが、|良人《お っ と》にはやく死に別れ、実家へかえると、そのまま二度と嫁さなかった。  それというのが、兄嫁というのが娘ひとりのこして早くなくなったところへ、兄がまた、ひとり娘を継母の手にかけるのはかわいそうだといって、後妻をもつことを承知しなかったので、幾代はつい、その|姪《めい》のかわいさから、この家に腰を落ちつけることになり、いつか商売のほうを手伝うようになっていた。  その兄も五十の坂を越すとまもなくなくなった。姪の道子はそのすこしまえ、達夫という養子をむかえて、啓一という子どもまであったが、去年達夫も道子も、あいついで恐ろしい死にかたをした。それ以来お幾は幼い啓一をまもって、女手ひとつでこの熊の湯を守りたてているのである。 「その達夫というひとなんですね。去年殺されたというのは……?」 「そうです、そうです。|年齢《とし》は三十でしたがね。その達夫というのはさっきバスを降りたN町のものもちの次男なんですが、ここの娘の道子というのが、この近在でも有名な美人だったので、器量望みで、たって養子に入ったんですね。まあ、金持ちの息子にありがちな、わがままで身がってで、自分のことしか考えないようなだだっ子のうえに、女のことでもいろいろうわさがあった人物で、あんまり評判がよくなかったというんだが、滝田……滝田というのが達夫の生まれた家の姓なんですが……このへんで滝田といえばならぶものもないほどの家柄だもんだから、当時もまだ生きていた道子のお|父《とっ》つぁんというのが、その家柄にほれこんだんですな。そのじぶん道子はまだほんの子どもでしたから、好きもきらいもない、親のいうことなら、なんでもハイハイときいていたんですね」  そういうふうだから、はじめのうち夫婦仲もいたって円満だった。|小《こ》|糠《ぬか》三合さげてもといわれる養子に、みずから望んで入ったくらいだから、達夫の道子をかわいがりようといったらなかった。結婚の翌年にめでたく男の子が生まれた。そして、それから間もなく道子の父、お幾の兄が亡くなった。  ところがそのじぶんから達夫はしだいに地金をあらわしてきた。  達夫は元来、飽きっぽい性分にできていたが、ことに女にかけてはそうらしかった。あれほどほれて女房にした女ながら、三年もするとそろそろ鼻についてきたらしい。しだいにNへ羽根をのばす日が多くなった。Nには酌婦のようなものがたくさんおり、わたりものの酌婦のなかには、相当|凄《すご》|腕《うで》の女もいた。達夫はそういう酌婦のひとりにひっかかって、家へかえらぬ日が多くなり熊の湯の財産はしだいに食いあらされていった。 「まあ、そういうわけで、その男が死んだのは、この家にとっては疫病神を追っぱらったみたいなもんだったんですが、それがあまりにも恐ろしい殺されかただったもんだから……」  と警部が顔をしかめたのは、かならずしもたばこの煙が目にしみたせいではなかったろう。 「ひとつその話をしていただけませんか」 「承知しました」  と、警部はたばこを灰皿のふちでもみ消すと、 「それはこうなんです、達夫という男には女道楽のほかにもうひとつ道楽があった。それは猟なんですね。猟となると達夫は目がないほうで、狩猟の季節がくると、毎年達夫は鉄砲をもって、山のなかをかけずりまわる。しかし、このあいだ女道楽のほうは中休みになるわけだから、このほうの道楽については周囲……と、いってもいまのおかみのお幾ひとりですが、お幾もなにもいわなかった。それが|仇《あだ》になって、達夫は猟に出ていったまま、ついに生きてかえらなかったんですな」 「なるほど、すると鉄砲でやられたんですか」 「いや、それがそうじゃない。なにしろ恐ろしい殺されかたで……達夫には猟友達がふたりあって、ひとりは片山といってNにある病院に勤めている若い医者、もうひとりは伊豆といって村役場の書記なんですが、達夫が猟に出かけるときには、いつもこの三人づれで夕方から出かけていくんです」 「猟にいくのに夕方出かけるんですか」  金田一耕助が不思議そうにたずねる。 「ええ、そう。それというのが片山にしろ伊豆にしろ、昼間の勤めのあるからだでしょう。ここから猟場まで出かけるには、一里も奥へ入らなければならないから、夜が明けてから出かけたんじゃ、ろくすっぽ猟をするひまもないわけです。それですから、いつも夕方出向いていって、さっき御案内した|土《つち》|牢《ろう》の跡の、お|籠《こも》り堂へ泊まって、夜が明けるのを待って猟をしてかえるんです。狩猟には夜明けがいちばんいいんだそうで……」  金田一耕助は無言のままうなずいた。 「それで、その晩……すなわち去年の十月二十五日の晩のことですが……その晩もそこへ泊まるつもりで、片山さんや伊豆さんといっしょに三匹の犬を連れて出かけたんですね」  ところが、その翌朝の九時ごろのこと、片山と伊豆のふたりが、犬を三匹、銃を三丁もってぼんやりかえってきた。そして、こちらの御主人はもうおかえりですかという|挨《あい》|拶《さつ》に、お幾も道子もおどろいた。  むろん、達夫はまだかえっていなかった。そこで、いろいろきいてみると、三人はまえの晩、お籠り堂でいっぱい飲んで寝たのである。これは、いつものことで、三人とも酒好きなところから、いつもそこへいくときは、一升さげていくのである。ところが今朝目がさめてみると達夫がいない。犬もいるし、銃もあることだから、小便にでもいったのだろうと、はじめのうちはべつに気にもとめなかったが、いつまでたってもかえってこない。そこでふたりはともかくも好きな猟をしようと、てんでに山のなかを駆けずりまわって、さて約束の時間にお籠り堂へかえってみると、依然として達夫の犬はつないだままだし、銃もそこに投げだしてある。  ふたりは妙に思ったが、ふたりともそれぞれ勤めのあるからだだから、いつまでも、達夫のかえりを待つわけにはいかなかった。ひょっとすると、急に気がかわって、さきへかえったのかもしれないと、ともかく、達夫の銃と、犬を連れてかえってきたというわけである。  お幾も道子もそれをきいておどろいた。ひょっとすると山でけがでもしているのではあるまいかと、熊の湯の奉公人や近所の若い者にもたのんで、山のなかをさがしてもらうことになった。道子は心配のあまり動けなくなったが、お幾はすててもおけないから、仕出しの弁当をかついでいっしょに出かけた。そして、さんざん捜しているうちに、若いものが屏風岩のてっぺんから滝をのぞいて叫んだのである。 「やあ、獄門岩に首がのっかっている!」  その首が達夫だったことはいうまでもない。それから大騒ぎになって、胴の行方をさがしたが……。 「それが首なしの淵に浮いていたというわけなんですね」  金田一耕助の質問に警部は暗い目をしてうなずいた。 「それで死因は……?」 「心臓をひと突きにえぐられて……」 「なるほど、それで凶器は……?」 「見つからなかったんです」 「切り口のぐあいは……?」 「それがね、じつにむごたらしい切り口で……素人があまり切れない刃物でやったらしいんですね。いま思い出してもあんまりいい気持ちじゃありませんな」  磯川警部はいまわしそうに渋面をつくって、 「それでまあ、いろいろ調べてみたんですが、達夫は素行が素行だから、恨みをふくんでいる人間も相当ある。この村にもいるしNにもいる。そういう連中を|虱《しらみ》つぶしに調べていったんですが、みんなはっきりした証拠もなく……」 「いっしょにいった片山と伊豆という男はどうなんです。いくら酔うていたからといって、朝までなにも知らずにいたというのは……」 「もちろん、このふたりはもっとも重要な参考人ですから厳重に聴取しましたがね。ふたりとも毛布にくるまって横になったと思うとそれっきりで、朝までなにも知らずに眠っていたというんです」 「それで、犯行の時刻は……?」 「検視の結果、だいたい真夜中の二時から三時までのあいだだろうというんです。ところがあいにくなことには、ちょうどその時刻にかなりはげしい雨が一時間ほど降りつづいたので、犯人の足跡があったとしても、それで消えてしまったでしょうし、それに生首が発見されるまでに、お籠り堂のあの付近一帯、熊の湯の奉公人や若い者たちに、すっかり踏みあらされてしまって……」 「生首はいつごろ発見されたんですか」 「正午ちょっとまえだったそうで。……なにしろ生首ののっかっていた位置というのが、滝壺のまえに立ったんじゃ見えないところで……だれかが、きょうわれわれが登っていった渓流のこちらがわの道をのぼっていけば見えたんですが、そんなこととは知らないものだから、みんなふつうの道をたどっていったんですね。それだと|屏風《びょうぶ》岩のかげにかくれて、あの獄門岩は見えないわけです」 「首なしの淵で胴体の発見されたのは……?」 「時間的にいって生首が発見されたのと、ほとんど同時くらいだったらしい。あの淵は底のほうに針のような岩が突き出していて、それを中心に|渦《うず》を巻いている。だから表面はごく静かだが、水中へ入るととても危険なんだそうで、めったにひとも近よらないところなんです。それを通りがかりの村のもんが、ひょんとのぞくと岩の下にへんなものが浮いている。おやと思うて見ていると、そのまま渦に巻かれて水の中へ沈んでいった。しばらくすると、またむこうのほうに浮かびあがった。こうして二度三度、浮かんだり、沈んだりするのを見ているうちに、人間だちゅうことがわかったので、さあ大騒ぎになったというわけです。なんでもその死体を引き揚げるにはひと苦労したということですよ」  金田一耕助はだまってたばこを吹かしていたが、やがてそれを灰皿のなかでもみ消すと、 「ところで、警部さん、その当時のあなたの見込みはどうだったんです。なにかお考えはあったんでしょう」 「いやあ」  と、警部は照れたようにつるりと顔をさかさになでると、 「見込みといっても、結局失敗したんですからな。……でも、そのときのわたしの考えじゃ、犯人は被害者と非常に親しいものにちがいない。……と、こうにらんだんです。と、いうのは犬ですね。お籠り堂には三匹の犬がいたんですが、三匹の犬がいっせいにほえたてていたら、いかに酒に酔うていたとはいえ、片山や伊豆は目をさまさなければならんはずです。それがそういうけはいがなかったとすると、犯人というのは犬たちが知ってる人物であった。つまり被害者の親しい人物であった。それがなにかの口実で達夫をお籠り堂からひっぱり出し、どこかでやったんだろう……と、そういうことになってるんですがね」 「それで、首と胴とを切断した理由は……?」 「さあ、それがわからない」  と、磯川警部は顔をしかめて、 「まあ、故人にたいして非常な残忍な|復讐《ふくしゅう》心に燃えていた……と、そう考えるよりほかに手がないんでしてね。ところが、伊豆や片山には、べつにそういう動機もない。それに、もし、かれらのうちのだれかに犯意があったとしても、そういう機会はねらうまいと思うんですよ。みすみす自分たちに疑いが降りかかってくるんですからな。しかし、その後も相当ながくふたりの行動には注目させたんですが、べつにこれといって……」  金田一耕助はしばらく考えたのち、 「ところで、犬ですがね。達夫の犬はつないであったとおっしゃいましたね。犬は三匹ともつないであったんですか」  磯川警部はギョッとしたように、金田一耕助の顔を見なおしたが、 「さあ、それは……よく記憶にのこっとりませんが……そのことがなにか……」 「いやあ、ぼくも猟のことはよく存じませんが、だいたいそういう野宿同様に寝るばあい、犬をつないでおくというのはどうでしょうか。眠っているあいだに、いつどういうしろものの襲撃をうけるかわからないんですからね。犬は放しておくのがふつうじゃないんでしょうかねえ」 「なるほど、なるほど、そうおっしゃればそうです。しかし、達夫の犬はたしかにつないであったといってましたが……ああ、そうじゃ、いよいよ犯人は達夫と親しい者だということになる。犯人といっしょに外へ出るとき、犬が追っかけてきちゃいけないというので、達夫がつないでいったんじゃ……」 「なるほど、それでその晩、だれか部落のほうから山へのぼっていったものは……?」 「いや、それがわからないんです。さっきもいったとおり、犯行のあったと思われる時刻には、相当ひどい降りがあったというんですから、お籠り堂まで往復すれば、犯人はひどくぬれていなければならんはずなんですが、そういう聞き込みもなかったんですね」  金田一耕助はしばらく無言のまま警部の渋面を見つめていたが、やがて思い出したようにポツリとたずねた。 「それで、道子という婦人はどうしたんですか。なんだか恐ろしい死にかたをしたというお話でしたが……」 「さあ、それですがね。首と胴とを切断された良人の死体を見せつけられてごらんなさい。たいていの婦人は気が変になりますよ。道子というのもそれ以来、いささか気がふれていたんですね。達夫が殺されてから三週間ほどのちに、首なしの淵に身を投げて死んだんですが、その死体というのが良人と同様、じつにむごたらしく傷だらけになって……あの淵の底にはよほど恐ろしい岩があるとみえるんですね」  金田一耕助はそれをきいてもおどろかなかった。さっき戸袋の天井裏から発見した、あの書き置きらしい手紙の断片が、脳裏にこびりついて離れなかったからである。 「それで、書き置きは……?」 「いや、書き置きはありませんでした。まあ、気がたかぶって発作的にとびこんだんだろうということになってますがね。たいへん、おとなしい、内気な婦人だったといいますから、それだけショックも大きかったんでしょうな」  磯川警部は|憮《ぶ》|然《ぜん》として口を閉じた。  夜ももうよほどふけて、ひっそりとしずまりかえった熊の湯の、背後を流れる渓流の音のみたかかった。      四  その翌朝、旅のつかれですっかり朝寝坊をしたふたりが、風呂からあがって朝食のお|膳《ぜん》にむかったのは、とっくに九時を過ぎて、もう九時半に近い時刻だった。 「菊ちゃん、母家のお客さん、いやに静かなようだが、もう撮影に出かけたのかな」  磯川警部が|味《み》|噌《そ》|汁《しる》をすすりながらたずねると、 「はい……」  と、菊はことば少なにこたえた。まだ|年齢《とし》のいかぬこの女中には、よほど警部がこわいらしい。 「いったい何人のこってるの」  金田一耕助もそばからたずねた。 「五人さんです」 「五人というとだれだれ……?」 「はい、監督さんの里村さんと、男優の内山進治郎さん、女優の香川千代さんと、カメラマンの服部千吉さん、それから助監督の土井新さん……と、それだけです」 「それにしちゃ、ゆうべはいやに静かだったね。あのひとたち、ロケーション宿ではとても騒ぐという話だから、こちらも覚悟をしていたんだが……あらかたかえってしまったので、がっかりしたのかな」 「いえ、あの、それが……」 「それが……? どうかしたの?」 「ゆうべはこちらにおふたりさんしかお泊まりにならなかったもんですから……」 「だって五人のこってるといったじゃないか」 「はあ、でも……」  と、菊はいってよいかわるいかためらいながら、 「お三人さんはお薬師さんのお|籠《こも》り堂へ探検にいかれたんです」 「お薬師さんのお籠り堂へ探検に……?」  磯川警部は思わずドキリとしたように、金田一耕助と顔を見合わせた。 「だれとだれが出かけたの」 「監督さんの里村さんと、男優の内山さん、それからカメラマンの服部千吉さんです」 「すると、のこってるのは女優さんの香川千代君と助監督の……なんとかいったな」 「土井新さんです。でも、おふたりともさっきお出かけになりました」 「出かけたって、どこへ?」 「山のお籠り堂へ……けさ、むこうで撮影なさるとか……」 「それで、三人はいつ出かけたの。ゆうべの何時ごろ……?」 「夕方の六時ごろでしたでしょうか。夕飯を召し上がるとまもなく……お酒や毛布をもって……」 「しかし、ねえ、菊ちゃん」  と、金田一耕助はわかい女中の顔に目をやりながら、 「いったい、どうしてそんなことになったの。まあ、あの連中の物好きといってしまえばそれっきりだが……」 「さあ、それはあたしも存じません。お出かけになるときいてびっくりしたんですけれど……」  菊はよくないこといい出したのを後悔するかのように、食事がおわると早々にお膳をもってひきさがった。 「さて……と」  と、そのあとで、磯川警部はさぐるように耕助の顔を見る。 「さて……と? なんですか、警部さん」 「いやあ、しらばくれちゃいけませんや。ゆうべの話ですがね。金田一さん、あなた、なにかお考えになることは……?」 「あっはっは、警部さん、それは御無理ですよ。なんぼなんでもねえ」  さすがに耕助も照れくさそうに笑いながら、 「でもねえ、ただひとつ、ぼくには不思議に思えることがあるんです」 「どういうことですか、それ……」  磯川警部ははやくも|膝《ひざ》を乗りだす。 「いや、それに特別の意味があるのかどうかわかりませんがねえ。犯人が達夫の首を切りおとしたってことね。それが不思議なんです。首を切りおとすってことは容易なことじゃありませんよ。時間もかかるでしょうしねえ。それにもかかわらずちょくちょく首なし事件ってのが起こるのは、犯人が被害者の身元をくらまそうとするためでしょう。ところが、この事件では犯人はべつに被害者の身元をかくそうとしなかった。生首は故意か偶然か獄門岩にのっかってたし、首なし死体のほうは……そうそう、警部さん、首なし死体は裸だったんですか」 「いや、ちゃんと猟服を着てましたよ。だからいっそう気味が悪くってねえ。首なしの淵からその死体引き揚げ作業にあたった連中で、二、三日飯が食えなかったというのが相当いましたからな」 「それで、その着衣からしてすぐに達夫と判断されたんですね。とすると、いよいよ首を切断した意味がわからなくなる」 「そうおっしゃればそうですけれど、……だからゆうべもいったとおり、よほど残忍な復讐心に燃えていたか……それから、そうそうこれをクニシン様のたたりであると、思いこませようとしたんじゃあないかな」 「しかし、警部さんはたたりで満足なさいますか。なさらないでしょう。部落の中の無知な連中はそれで納得させることができるかもしれないが、警察のひとたちはとてもそんなこと、信じやあしないということぐらい、犯人も知ってそうなもんですが、それにもかかわらず犯人は、何故大骨折って首を切断しなければならなかったか……」  金田一耕助はぼんやりと、縁側のむこうにせまる山の紅葉に目をやりながら、両手で厚手の番茶|茶《ぢゃ》|碗《わん》をもんでいる。外は理想的な秋晴れで、これでは撮影も快調に進行するだろう。 「それともうひとつ不思議なのは達夫という男の犬がつないであったということですね。このことはいちど、片山という男と伊豆という人物にたしかめてごらんになったらいかがですか。そういう場合、いつも犬をつなぐものなのかってこと。……ふたりともまだこちらに……?」 「ええ、それはいるはずだと思うが……ひとつおかみにきいてみましょう」  警部が呼び鈴を押しかけたところへ、お幾が茶と菓子をもって入ってきた。 「どうも失礼いたしました。今晩母屋があくはずですから、そうしたら、むこうへ御案内いたしますから……」 「いやいや、それはどうでもいいんだがね。それよりおかみさん、去年の事件の関係者の片山という若い医者や伊豆という村役場の書記は、まだこちらにいるだろうね」 「はあ、それはもちろん。でも、また、あのことでなにか……?」  お幾はふいと不安そうな色を見せた。しっかりしているようでももう年齢である。|小《こ》|鬢《びん》のあたりに人生の苦労がきざまれている。 「いやあ、べつに……取りたててどうのこうのってわけじゃあないが、こちらへ来れば思い出すだろうじゃないか。あの一件じゃわたしも面目丸つぶれというところだからな」 「それはもうお気の毒でございましたが、これも因縁事でございましょう。あしたが一周忌になるんでございますが……」  と、警部の顔をうかがうお幾の目には、さぐるような色がある。 「そうそう、ゆうべこちらと話をしていて思い出したんだが……それじゃ伊豆君も片山君もいるんだね、いまでもこちらに……」 「はあ、片山さんはNですが、伊豆さんならば役場へいらっしゃれば……でも、あのかたたちなにも御存じないんじゃないでしょうか。あのとき、すっかりお話しなさいましたようですが……」 「ああ、それがね。わたしの見落としていたことで、ちょっとたしかめてみたいことがあってな。なあに、べつに心配なことはありませんのさ」 「はあ」 「それはそうと、おかみさん」  心配なことはないといっても、なんとなく不安そうなお幾のしこりをもみほぐすように、そばから金田一耕助がことばをはさんだ。 「ゆうべ映画の連中が、お薬師様のお籠り堂へ探検にいったというのはどういうんです」 「ああ、そのこと……」  と、お幾もはじめてにっこり笑うと、 「わたしもあのひとたちの物好きなのには驚いてしまいました。どなたか去年の事件をきいていらしたんですね。それでみなさんがおせがみになるもんですから、一昨日の晩でしたか、わたしがついあの話を詳しくしてさしあげたんですよ。そしたらみなさん、とても興味をおもちになりまして。……クニシン様のたたりかどうかためしてみるとおっしゃって……」 「おかみさんはあの事件をクニシン様のたたりだと思ってるの」 「まさか……」  と、お幾はゆったりわらって、 「わたしもそれほど古くはございませんのよ。でもねえ、明治の終わりごろですか、やっぱりあのお籠り堂で人殺しがあったとかで、そのときも犯人がわからなかったということです。それですから、いろいろとまあ、世間でいうわけでございますねえ。なにか達夫があのお籠り堂で不浄なことでも働いたので、クニシン様のお怒りにふれたんじゃあないかって……わたしはもちろん、そんなこと信じやあしないんですけれど……」 「それで里村監督やなにか三人がたたりがあるかないか試してみようということになったんだね」 「ええ、そうなんですの。わたし、そんなつまらないことおよしなさいとお止めしたんですけれど、みなさん物好きでいらして……」 「それで女優の香川君と助監督の土井新という青年だけがのこったんだね」 「はあ。土井さん、少し風邪ぎみで青い顔をしていらっしゃいましたから、里村先生もむりにはおすすめなさらなかったんです。それに、先生けさ起きぬけに、お籠り堂の付近を中心として、撮影なさるおつもりだとかで、きみは来ないほうがいい。そのかわり、あすの朝はやく、香川君を連れて、フィルムやなんかもってきてくれとおっしゃって……」 「それで、ふたりはもう出かけたんだね」 「はあ、一時間ばかりまえに……お弁当をこしらえてさしあげましたから、それもいっしょにおもちになって……」  磯川警部はふたりの問答を、いかにももどかしそうにきいていたが、やがてたまりかねたように立ち上がると、さっさと洋服に着かえはじめた。 「金田一さん、金田一さん、そんな話、どうでもいいじゃありませんか。クニシン様のたたりがどうのこうのって、それよりボツボツ出かけようじゃありませんか。あなたもお召しかえをなさい」 「あっはっは、警部さんはひどいですねえ。それじゃぼくの休養はどうなるんですか」 「休養なんていつでもできまさあ。なんです、若い身空で、休養、休養なんて。あっはっは」 「なにがあっはっはです。警部さんはひどいですねえ」  と、冗談をいいながら、それでも耕助が立ちあがって、着物を着かえて|袴《はかま》の|紐《ひも》をしめているところへ、母屋のほうからただならぬ叫び声がきこえてきた。  おや……と、警部はコートに腕を通す手を、金田一耕助は袴の紐をしめる手を、そのままとめて、母屋のほうをふりかえったとき、女の金切り声で早口に、なにやらしゃべる声がきこえていたが、やがて渡り廊下をころげるように走ってきたのは女中の菊である。 「お、お、おかみさん!」  と、叫んだかと思うと女中の菊は、べったりその場にへたってしまった。どうやら腰がぬけたらしい。 「なんです。菊、お客様のまえでそのざまは……」  と、さっきからお盆をもったまま中腰になっていたお幾がたしなめると、 「だって、だって、おかみさん……」  と、いったもののそのあとがつづかない。どうやら腰といっしょに舌の根もぬけてしまったらしい。ただ、あわあわとわけのわからぬ発音の|羅《ら》|列《れつ》である。 「菊ちゃん、ど、どうしたんだ。なにか変わったことでもおこったのか」  磯川警部が菊の肩をつかまえてゆすぶると、菊はがくんがくんと張り子の虎のように首をふりながら、 「か、香川さんがかえってきて……」 「ふむふむ、香川さんがかえってきて……?」 「山のお籠り堂に里村先生の姿が見えないので……」 「ふむふむ、山のお籠り堂に里村先生の姿が見えないので……?」 「みんなで捜していたら……」 「みんなで捜していたら……?」 「獄門岩に……獄門岩の上に……」 「ご、獄門岩の上に……?」  と、ききかえしたときには、さすがの磯川警部の顔色も真っ青になっていた。金田一耕助は袴の紐を握ったまま、ものにつかれたような目の色をして、女中の菊を見まもっている。おかみのお幾はお盆を握りしめたまま、半分逃げ腰のような格好だった。 「こら、獄門岩の上にどうしたというんじゃ。菊ちゃん、しっかりせんか」  両手でぐいぐい肩をゆすぶられて、菊はがくんがくんと折れそうなほど首をふりながら、 「獄門岩の上に里村先生の生首が……」 「なに、獄門岩の上に里村先生の生首が……?」  |茫《ぼう》|然《ぜん》として磯川警部が手をはなしたひょうしに、菊はがっくりつっぷして、そのまま気が狂ったように泣き出した。  磯川警部と金田一耕助は、しいんと骨をけずるような静けさのなかで、探るようにたがいの顔を見合わせている。  お幾は骨をぬかれたように、べったりそこに腰をおとして、茫然としてあらぬかたをながめていた。      五  じっさい、里村監督の事件ほど、熊の湯の近在一帯のみならず、岡山県下をさわがせた事件はなかった。昨年とおなじような残虐が、またここにくりかえされたのだ。里村監督の生首は獄門岩の上に。そして、その胴体は首なしの淵に……。  しかも、こんどの事件の関係者と、昨年の事件の関係者のあいだになんらかのつながりがあろうなどとは、どう考えても、思えなかった。去年の事件で、もっとも強い疑惑をもってむかえられた片山医師と伊豆書記は、どのような意味でも里村監督と関係があろうなどとは思えない。この土地のひとびとにとって、里村監督はただたんなる旅行者にすぎないのである。  それと同様のことがこんどの事件の関係者についてもいえる。あのお籠り堂で里村監督と一夜をともにした男優の内山進治郎と服部カメラマンも、里村監督とおなじように、この土地のひとびとにとっては異邦人なのだ。かれらはともに、去年の被害者、熊の湯の養子達夫とはなんの関係もなかったし、それにだいいち、かれらはそのじぶん、この土地にいなかったのみならず、こういう土地があることすら知らなかったのだ。そしてそのことはほかのふたりの関係者、女優の香川千代と助監督の土井新についてもいえるのである。  それにもかかわらず、去年とまったくおなじ残虐が、寸分ちがわぬ正確さをもって演じられたのだ。お籠り堂に一夜をあかした三人のひとりが殺されて、その生首は獄門岩に、そして、その胴体は首なしの淵に……。  それではやはり愚民どもの信じている、クニシン様のたたりと解釈するほうが正しいのだろうか……。 「あっはっは、警部さん、あなたはとうとうぼくの静養を台なしにしてしまいましたね」  きのうたどった木の根、岩角だらけの野獣の通い路の途中に立って、はるかむこうの獄門岩を望見したとき、金田一耕助は泣き笑いにも似たかわいた笑い声をあげずにはいられなかった。  そこからでは、はっきりとした眼鼻立ちまでわからなかった。いや、たとえそれを識別しうる視力をもっていたとしても、顔を見ることはできなかったであろう。なぜならばその生首はこちらにうしろ頭を見せ、|屏風《びょうぶ》岩のほうにむいておいてあるのだ。しかし、どちらにしてもそれが生首であると思うと、金田一耕助は背筋をつらぬいてはしる|戦《せん》|慄《りつ》をおさえることができなかった。  そしておなじ戦慄がいま部落をつうじて走っているのだ。|滝《たき》|壺《つぼ》のまえにはもう十五、六名、部落のものがあつまって、気がくるったような声高で、口々になにやらわめいている。渓流のむこうの道を蟻の行列のようにつながって、男や女が走っていく。そのなかに村のおまわりさんの姿もまじっていた。  金田一耕助はまじろぎもせず、獄門岩に目をそそぎながら歩いているうちに、木の根に足をとられて思わず二、三歩よろめいた。 「あっ、金田一さん、危ないですよ」 「いやあ、どうも……」  と、耕助はあたりを見まわして、 「ああ、きのうもここでころびそうになったのでしたね。この木の根っこ、よほどぼくに遺恨があるとみえる」  と、歩きかけておやとそこに足をとめた。 「金田一さん、どうかしましたか」 「警部さん、きのうもぼくはここでころびかけて、あわててあたりを見まわしたんですが、そのときにはこんなもの落ちてやしませんでしたね」  耕助が|下《げ》|駄《た》のつま先で指さしたのは、木の根っこの上を蛇のようにはっている日本手ぬぐい。まるで、|醤油《しょうゆ》で煮しめたような色をしている。 「ええ、そう、その後だれかここを通ったものがあるとみえる」  金田一耕助はそこに立ちどまって獄門岩を見る。そこから獄門岩までさしわたしにして十間あまり、そこにのっかっている生首のかたちがはっきり見えた。  金田一耕助がその手ぬぐいをひろってひろげてみると、すみのほうに墨で田口と書いてある。 「警部さん。なにかこれを包むようなものをおもちじゃありませんか」 「ああ、そう」  と、磯川警部はポケットからハンケチを取りだすと、惜し気もなくそのきたない手ぬぐいをつつんで、 「これはわたしが保管しておきましょう」 「どうぞ……」  それからまもなくふたりが、岩の階段をおりていくと、滝壺のまわりにいたひとびとが、おびえたような顔をして、いっせいにこちらをふりかえった。そのなかに三人だけ、明らかに映画人と思われる男がまじっていて、しかもそのなかのひとりは、きのう熊の湯の門前で見かけた助監督の土井だった。 「ああ、井口君だね」  磯川警部が声をかけるとまだ年若い井口巡査は、びっくりしたように目をみはる。 「ぼくだよ。去年もやってきた磯川警部だ。またとんだことがもちあがったな」 「あっ、それじゃもう県のほうへ……?」 「ばかなことをいっちゃいけない。そんなにはやく知れてたまるもんか。ちょうどこちらへ来ていたんだ。ところで……」  と、警部は三人のほうへむきなおって、 「失礼ですがあなたがたは日本キネマのかたがたですね」 「はあ……」  と、答えて三人は顔を見合わせている。 「だれがあの生首を発見したんですか」 「だれってわれわれ三人がほとんど同時に発見したんです」  と、そう答えたのは服装からみても服部カメラマンだろう。四十くらいのやせぎすの、色の青黒い男で、毛糸のジャンパーを着て額に青いシェードをつけている。 「生首発見にいたるまでの|顛《てん》|末《まつ》をおきかせねがえませんか」 「はあ、承知しました」  と、服部カメラマンはちょっと呼吸をうちへ吸って、 「ゆうべわれわれ、里村先生……あの生首のぬしですね、その里村先生とここにいる内山君、それからぼくの三人は、この上のお籠り堂で一夜を明かしたんです。つまりその、……クニシン様にたたりがあるかどうかためしてみようということになったんですね」 「ああ、ちょっと……」  と、金田一耕助がさえぎって、 「そのことはいったいだれがいいだしたんですか」 「里村先生ですよ」  と、服部カメラマンはうさんくさそうに、金田一耕助の|風《ふう》|采《さい》を見ていたが、またその視線を警部のほうにもどすと、 「じつをいうとぼくなんか、子どもっぽいばかげた話だと思ったんです。おそらくここにいる内山君にしたっておなじことだったでしょう。しかし、あのひと暴君なんでしてね。いいだしたらあとへ引かない。ごきげんを損じるとあとのたたりがおそろしい。クニシン様のたたりより、われわれにとっちゃこのほうがよっぽど怖い。それでまあつきあったわけです。ところがけさ目がさめてみると先生の姿が見えない。しかし、まさかこんなこととは思わなかったもんだから、どこかそのへんでロケーション地帯でもさがしてるんだろうくらいに思ってたんです。けさこのへんで撮影することになってたもんですからね。ところがそこへ、ここにいる土井君が女優の香川千代を連れて、弁当やフィルムをもってきてくれたんです。それでぼくたち弁当を食っちまったんですが、それでもまだ先生の姿が見えないんで、だんだんこう、不安になってきたんです。それで、こりゃひょっとすると、やっぱり、クニシン様のたたりがあったんじゃないかと……」 「だれがそれをいいだしたんですか」  と、金田一耕助。服部カメラマンはまたうさんくさそうにそのほうを見て、 「ぼくですよ」  と、憤ったような声で答えた。 「いや、いいだしたのは服部さんでしたけれど、ぼくなんかもおなじようなことを考えてましたよ。もちろん冗談半分にね。土井さんなんかもそうじゃないの」  と、内山進治郎が口を出した。  この内山なども里村監督に見いだされたひとりで、五尺七寸の堂々たる|体《たい》|躯《く》と、彫りのふかい荒けずりな|容《よう》|貌《ぼう》が売り物になっている。深いひびきのあるバリトンの声が快かった。 「はあ……」  と、助監督の土井は|爪《つめ》をかみながら、ぼんやりとあらぬかたをながめている。ふつうの標準からいうと、土井のほうが内山よりよっぽど好男子だった。柄からいうと内山よりだいぶん小さいが、色白の、いかにもお坊っちゃんらしい|美《び》|貌《ぼう》だが、ちかごろのように個性の尊重される時代には、こういう美貌は映画むきではないのかもしれない。 「それで……クニシン様のたたりじゃないかといい出して……?」  と、磯川警部があとをうながす。 「はあ、それで……」  と、服部カメラマンがだまりこんでしまったので、男優の内山進治郎があとをつづけた。 「われわれこの滝壺へやってきたんです。そのときは香川君もいっしょでしたが……するとあの岩の上に生首がのっかってたので……」  さすがに内山進治郎も身ぶるいをする。服部カメラマンはちょっと生首のほうへ目をやったが、すぐ目をそらして肩をすくめる。土井助監督はあいかわらず爪をかみながら、あらぬかたをながめていた。 「しかし、ねえ、内山さん」  と、そのへんを歩きまわっていた金田一耕助が、獄門岩をあおぎながら、 「ここからだとどの角度からみても、うしろ頭の上部しか見えませんよ。予備知識がなければ、生首だと気がつかなかったかもしれない。どうしてあれが里村監督だとわかったんですか」 「いや、それは……」  と、内山進治郎は額の汗をぬぐいながら、 「われわれがここに立ちすくんでいると……そのときのわれわれの気持ちを御想像ください。まるで悪夢にうなされてるみたいでしたよ。するとそこへむこうの道をのぼってきたひとがあるんです。それで、そのひとに話をすると、そのひとがわれわれをあの岩のてっぺんへ連れていってくれたんです」  内山が指さす屏風岩のてっぺんには、黒山のようにひとがたかって、あのからかさのような赤松の枝にも、ひとが鈴なりになっている。 「ああ、あそこからのぞくと顔がみえるんですね」 「ええ、そう、ちょっとあおむきかげんにちょうどあの赤松の根もとをにらむような格好でころんでいるもんですから……」  内山進治郎はまたぶるっと身ぶるいをする。まるで犬か猫がぬれた水をふるいおとすように……。  磯川警部はその顔を疑わしそうに見まもりながら、 「ああ、そう、それじゃあとでいってみることにして、そのまえにゆうべのことをきかしてもらいましょうか。あんたがたゆうべなにか変わったことに気がおつきでは……」 「さあ、そのことなんですがね」  と、内山は服部カメラマンと顔見合わせて、 「いま、あなたがたがお見えになるまでに、服部さんと話をしていたんですが、われわれゆうべ寝るまえに、一升の酒を三人で飲んだわけです。それで前後不覚に寝ちまったんですが、けさ目がさめると妙に頭がおもいんですね。ぼくもそうなんですが、服部さんもなんだかぼんやりしてるんですね。こんなことはぼくにしても服部さんにしても珍しいことです。われわれ相当酒は強いほうですから、三合や五合の酒が翌朝までのこるなんてことはないんです。でも、そのときはなんにも気がつかなかったんですが、こうなってみるとあの酒のなかになにか……」 「つまり睡眠剤でも入っていたんじゃないかというんですか」 「はあ、そうとしか思えないんですな。なんだかこう、まだ頭がボーッとして……|暈《かさ》をかぶってるような気持ちですね」  金田一耕助はさっきからそのことに気がついていた。内山進治郎も服部カメラマンも、妙に|瞳《どう》|孔《こう》が散大していて、うるみをおびたような目つきがおかしかった。 「だれか睡眠剤を常用してるひとがありますか」 「はあ、里村先生が……、あのひとは酒が足りないと、睡眠剤を飲んで寝るんです」 「それで一升瓶やコップは?」 「まだ上のお|籠《こも》り堂にあるはずです」 「ああ、そう、井口君、きみ、上のお籠り堂へいって、いまいった品々を保管するように取り計らってくれたまえ。いいか、指紋には気をつけるんだぜ」 「はっ!」 「金田一さん、それじゃわれわれも屏風岩のてっぺんから、のぞいてみようじゃありませんか。ああ、それからきみたち、きみたちはすまないが事件の目鼻がつくまでここに|逗留《とうりゅう》してくれたまえ。いいでしょうな」  三人は困ったように顔を見合わせていたが、 「しかたがないや。どうせ、オヤジが死んだんだ。スタジオへかえったところで仕事になりゃしねえ」  と、服部カメラマンが投げだすようにつぶやいた。  磯川警部と金田一耕助が、野次馬をかきわけて屏風岩のふもとの坂をのぼっていくと、また渓流の下のほうから、興奮した野次馬の一群が駆けつけてくるのが見えた。 「見つかった、見つかった。首なし死体が見つかったぞお」 「去年とおんなじだ。首なしの淵に首なし死体が浮いてるんだ。井口さんはどこけえ」  磯川警部の面上には、さっと憤激の色がはしったが、金田一耕助がそれをなぐさめるように、 「まあまあ、警部さん、とにかく首実検をしていこうじゃありませんか」  と、みずからさきに立って、屏風岩の背後の急坂をのぼりはじめた。  じっさい、そのあとで見た、首なしの淵に浮かんでいた首なし死体もものすごかったが、そのとき、屏風岩の上からのぞいた、岩の上の獄門首もまけず劣らぬものすごさだった。  きのうと反対に午前の陽光がほとんど真正面から滝を照らしているので、|揺《よう》|曳《えい》する滝の光の反射をうけて、里村恭三の生首は、かげろうのように戦慄するライトを浴びて、一種異様なかぎろいをおびている。  滝の|飛沫《し ぶ き》に洗われて、血はほとんどついていなかったが、くわっと見ひらいた目玉がいまにもとび出しそうで、ねじれた唇のあいだから、少しのぞいた舌のはしのどすぐろさ。それに切断面からのぞいている筋肉のひらひらや白い骨。……べっとりと水にぬれた髪の毛が、額にからみついているのも気味悪い。その額と右の|顴《かん》|骨《こつ》の上に、大きな擦過傷をうけ、唇のはしが、相当大きく切れていた……。      六  部落はいまや|蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎである。去年につづくこんどの惨事に、多少とも精神状態に異常をきたしていないものはなかったであろう。  ちかくのNからはぞくぞくと応援の警官が駆けつけてくる。Nからの急報があったので二時ごろには県の警察本部から、係官がおおぜい自動車をつらねて乗りこんできた。それへ新聞記者が随行したので、日ごろ平穏な山間の一部落も、たちまちにしてものものしい雰囲気につつまれた。  三時ごろ首なしの淵からひきあげられた、首なし死体の検視がおわったところで、金田一耕助は磯川警部とともに、いったん熊の湯へひきあげてきた。 「まあ、たいへんでございますねえ。いったいどうしたというんでしょうねえ」  おそい昼飯のお給仕に出てきたお幾の声も、さすがにうわずってとがっている。 「どうしたのかおれにもさっぱりわからん。おかみ、こうなるとおれもクニシン様のたたり説を信用したくなるよ」 「まさかねえ……」  と、打ち消すお幾の語調にも元気がなかった。  金田一耕助は|箸《はし》をとったもののさすがに食欲はなかった。だれだって岩の上にころがっている生首や、水からひきあげられた首なし死体を見たあとで、食欲が|昂《こう》|進《しん》するものはないだろう。  金田一耕助はかるくいっぱい食って箸をおくと、 「おかみさん、香川千代はどうしてます」  と、お幾のほうへむきなおった。 「はあ、さっきNからいらしたお医者さんが注射をなさいましたので、やっと落ち着かれたようですが、いちじは気が狂うのではないかと思われたくらいで……」 「Nから来た医者というのは片山のことかね」  磯川警部が箸をやすめてたずねる。警部はさすがに|健《けん》|啖《たん》である。|岩《いわ》|魚《な》の焼いたのと、|松《まつ》|茸《たけ》の煮つけをうまそうにつついて、飯も三杯おかわりをする。 「いいえ、片山さんではございません。沢崎先生とおっしゃって、もっとお年寄りのかたでございます」 「どうだろうねえ。去年の事件の伊豆や片山が、こんどのロケーション隊に接触をもっているようなことはなかったな」 「はあ、いちど香川さんが胃|痙《けい》|攣《れん》をお起こしになって、その片山さんに来ていただきました。しかし、それはただそれだけのことで……それは伊豆さんにしろ片山さんにしろ、珍しいものですから、いろいろ撮影の便宜ははかってあげたようですけれど、それはもうほかの若いひとたち、みんなおなじことで……」 「ときに、おかみさん」  と、金田一耕助がことばをはさんで、 「ロケーション隊のことだがね。里村監督と、男優の内山進治郎らが、女優の香川をなかにはさんで|鞘《さや》当てを演じていたというような話きかなかった?」 「はあ、あの、そうおっしゃれば……でも、そんなことうそだかほんとだか。……まあ、ああいう社会ですから、いろいろうわさがうるさいんですね」 「ここで|喧《けん》|嘩《か》になるようなことはなかったかね」 「まさか。……でも、それについて香川さんが悩んでいらっしゃるということは、だれかからうかがいましたけれど」 「香川はいったいどちらに気があるふうだったね。おかみもこういう商売だから、そういうところを見るの上手なんだろう」 「とんでもございません。わたしはいたって無粋なほうで。……でも、そこはやっぱり内山さんのほうにねえ。だいいち里村先生には奥さんもお子さんもいらっしゃるという話ですから……」  金田一耕助はだまってたばこの煙を見つめていたが、急に思い出したように、 「そうそう、おかみさん、あの名主の滝へいく道ですね。村道というのか、県道というのか、谷の右がわの道でなく、左がわの岩角だらけの道……あの道を行き来するひとがありますか」 「いいえ、もう、こっちがわをいくひとはめったにございません。とても危ない道ですから」  おかみはなぜそんなことをきくのかというような顔色だった。 「しかし、もしそこを通るひとがあったとしたら、どういう目的があるんだろうねえ」 「そうですねえ」  お幾は金田一耕助の顔色をさぐるように見ながら、 「なぜそんなことをおたずねになるのか存じませんが、あの谷の左がわはわたしどもの持ち山なんでございますの。ところがいまがしゅんですから、松茸がたくさん出るんですが、どうかするとその|茸《きのこ》を盗みにいくものがあるんですよ。そういうひとがあの道をこっそりいくようですけれど……」 「茸を盗みにいくとすると夜……?」 「とんでもございません。夜は危のうございますから朝早くに……」  金田一耕助はしばらくだまって考えていたが、また思い出したように、 「ときにおかみさん、この部落に田口というひといる?」 「まあ!」  と、お幾はまた目をみはって、 「どうして御存じなのか存じませんが、その田口玄蔵という男なんですよ、しょっちゅううちの山へ茸を盗みに入るのは……ほんとに憎らしいっちゃ……」  お幾が|眉《まゆ》をひそめて舌打ちしているところへNから来た捜査主任の筒井警部補が、ふたりの刑事を連れてやってきたので、お幾はお|膳《ぜん》をもって早々にひきあげた。 「やあ、どうもお食事のところを。……さっそくですがねえ、警部さん、こんどの事件に関するかぎり、伊豆も片山もシロのようですねえ」 「アリバイがあるの」 「そうなんです。検視の結果犯行はだいたい十二時前後ということになってるでしょう。ところが伊豆のほうは昨夜、早場米の供出のことで十二時過ぎまで役場にいたというんです。これにはたくさん証人があります。いっぽう片山のほうはゆうべNの病院の宿直で、薬剤師やなんかと二時ごろまで|麻雀《マージャン》をやってるんです。それにふたりとも里村監督やなんかが、お薬師様のお|籠《こも》り堂へ探検にいくなんてこと、知ってるはずがありませんしねえ」  筒井警部補はいまいましそうに眉をひそめる。こんどの事件がまた迷宮入りでもしようものなら、それこそ面目問題なのだ。 「だけど、警部さん、いったいこれはどうなんです。こんどの事件と去年の事件と、なにか関連があるんですか、ないんですか」  磯川警部はそれには答えず、助け舟をもとめるように金田一耕助をふりかえる。耕助はなにかを見透かすような目つきをしながら、ぼんやり頭の上の雀の巣をかきまわしていたが、 「それはやっぱりあるとみなければなりませんねえ。こんな風変わりな事件が、偶然、あいついで起こるとは考えられませんからねえ」 「しかし、関連があるとすればどういうふうに? ふたつの事件の関係者は、ぜんぜんちがっているんですからな」 「そうです。そうです。そこが興味のあるところです。そして、それをぼくはいま考えているところなんです」  金田一耕助は悩ましげな目をして、ぼんやりと縁側から外の渓流を見ていたが、急に思い出したように、 「そうそう、刑事さん、すみませんが、服部カメラマンと内山進治郎のふたりをここへ呼んでくれませんか。ちょっとききたいことがあるもんですから」  刑事のひとりがすぐにふたりを呼んできた。 「ああ、お呼びたてしてすみません。じつはゆうべのことですがねえ。妙なことをきくようですが、あなたがたゆうべあのお籠り堂で靴をはいたまま寝られたんですか。それとも靴をぬいで……」  もじゃもじゃ頭の妙な男が、警部や警部補をさておいて、妙な質問をきりだしたものだから、服部カメラマンと内山進治郎は立ったまま、うさんくさそうに顔を見合わせていたが、 「むろん靴のままでしたよ。なにしろ野宿同様、着のみ着のままで寝たんですからな」  と、カメラマンが無愛想な声で答えた。金田一耕助はにこにこしながら、 「ああ、なるほど、しかし里村氏はどうでした? あのひとはもしや靴をぬいで寝たんじゃ……」 「いいえ、先生も靴のままでしたよ。どういうわけでそんなことをおたずねになるのか存じませんけれど……」  内山進治郎がおだやかに答えた。 「でも、あなたがたがおやすみになってから、靴をおぬぎになるというようなことは……」 「さあ、寝ちまったあとのことはわかりませんがねえ。でも、服部さん、靴のまま寝ようといいだしたのは先生だったね」 「ああ、そう、夜中にどういうことが起こるかもしれないからといってな」 「そうですか。いや、ありがとうございました。おたずねしたいというのはそれだけです。では、これで……」  金田一耕助はペコリと頭をさげると、服部カメラマンはばかにされたとでも思ったのか、上からぐっとにらみすえ、足音もあらく出ていった。 「なんだい、ありゃア……靴をはいて寝ようとぬいで寝ようと、大きなお世話じゃねえか。ちッだ!」  聞こえよがしにどなるカメラマンの声をきいて、金田一耕助は思わずプッと吹きだした。 「いや、まったくそのとおりですな」 「しかし、金田一さん、いまの質問はいったいどういう意味なんですか」  磯川警部はさぐるように耕助の顔を見ている。 「いえねえ。警部さんは気がおつきになったかどうか、里村監督の死体のはいてた靴の、右のほうでしたが舌皮が少しうちへよじれるようになってましたからね。あれじゃさぞ歩くのに気持ちが悪いだろうと思って……」 「するとあなたのお考えじゃ、里村監督は靴をぬいで寝た。それをだれかが殺してから、靴をはかせたというんですか」  筒井警部補の質問に、金田一耕助はためらうようにうなずいた。 「すると犯行の現場はやっぱりあのお籠り堂のなかということになりますね。しかし、そりゃ服部や内山は眠り薬を飲まされてたから気がつかなかったとしても、ああして心臓がえぐられてるんだから少しゃ血が……」 「いや、凶器を引っこ抜かずに、そのまま死体を運び出せば案外出血しないもんだよ。いままでにも、そういう例はたくさんあるからな。しかし、そうすると首を切断したのはやはりあの付近ということになる。筒井君、もっと綿密に捜査してくれたまえ」 「承知しました。しかしねえ、警部さん、あのお籠り堂が現場だとすると、服部と内山が共謀してやったんじゃないでしょうかねえ。ぼくは去年も片山と伊豆の共謀じゃないかと思ったんですがね」 「それともひとりがやったのを、ほかのひとりがかばっているか……ともかく首を切断した現場と凶器を発見するのが先決問題だ。こんどは抜からずやってくれたまえ」  しかし、その現場はついに発見されなかったのである。      七  Nから里村監督の死体解剖の、詳細な結果が報告されたのはその翌日の昼過ぎのこと。それによると死因ならびに犯行時刻についてはべつにとりたてていうことはなかった。致命傷は心臓のひと突きで、おそらく声もたてずに即死したであろうと判断され、その時刻は二十三日の夜の十二時前後、首が切断されたのはその直後であったろうと述べられている。  ここまでは警部も期待していたとおりだが、ほかにかれを驚喜させたのは死体の胃の|腑《ふ》から、かなり多量の睡眠剤が検出されていることである。しかも、それとまったくおなじ種類の睡眠剤が、お籠り堂で発見された二つのコップ……三つではない……からも検出されている。 「金田一さん、金田一さん、これでわかりましたよ。三人のうちのだれかが睡眠剤を飲まなかったんだ。そして薬を飲んだふたりが眠りこけているうちに里村を殺したんだ。と、いうことは犯人はやはり内山か服部のうちのひとりということになるじゃありませんか」  金田一耕助はぼんやりと縁側から、すぐ目の下に流れる渓流をながめていたが、 「しかし、警部さん、去年の事件ではどうだったんです。やはり被害者の胃の腑から、睡眠剤が検出されているんですか」 「いや、それは……そんな話はきかなかった。睡眠剤を飲んでいれば、当然検出されてわたしの注目をひいたはずだが……」  金田一耕助は警部のほうをふりかえると、にっこり笑って、 「と、すると、去年の被害者は睡眠剤を飲んでいなかったが、ことしの被害者は飲んでいる。ここにはじめて去年の事件とこんどの事件の相違があらわれてきたというわけですね。どうでしょう。去年の事件の関係者、片山と伊豆を呼んで、あのとき睡眠剤を飲まされたような気持ちはなかったかたずねてみたら……それに犬のこともありますし……」  警部はさぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、それでもすぐに同意して刑事に合図をした。  去年の事件の大立て者、片山と伊豆はともに三十前後で、片山のほうはさすがに医大を出ているだけあって、|垢《あか》抜けした|風《ふう》|采《さい》をしているが、伊豆というのは一見して村役場の書記だった。  ふたりともすっかり硬くなっていたが、磯川警部から睡眠剤のことをきかれると、ぎょっとしたように顔見合わせた。それから片山が呼吸をはずませ、 「そうです、警部さん、そのことは、あとで伊豆君とも語りあったんですが、あの朝、目がさめたときの気持ちはたしかにおかしかったんです。まるで|暈《かさ》をかぶったように頭がボーッとして、物を考えるのもかったるいような気持ちで……なあ、伊豆君」  伊豆もおびえたような目でうなずいた。 「しかし、それじゃなぜそのことをきみたちは、われわれに申し立てなかったのかね」 「だって、警部さん。われわれ、ぼくと伊豆君がそのことを語りあったのは、事件から三日ほどたってからのことだったんです。そのときにはもうコップも一升瓶もすっかり洗われてしまっているのでたとえ睡眠剤を飲まされたとしても証明のしようもありません。だからそんなことをいいだすと、いかにもふたりで打ち合わせて、作りごとをいっているように思われやしないかと……」 「いま、片山さんのいったとおりです」  と、伊豆は|臆病《おくびょう》そうな目に力をこめて語気をつよめた。  磯川警部はちょっと金田一耕助のほうをうかがったのち、 「それではもうひとつきくがね。あの朝、被害者の犬がつないであったといったね。きみたちいつでも犬をつないで寝るの」  片山と伊豆はまた顔を見合わせて、 「とんでもない。いつでも放ち飼いですよ。野獣におそわれちゃたいへんですからね。だからあの朝、達夫君の犬がつないであるのをわれわれはへんに思ったんです」  磯川警部は金田一耕助のほうをうかがったが、相手の顔に浮かぶ満足の色を見てとると、 「ああ、そう、じゃこれぐらいで……」  伊豆と片山がほっとしたような、しかしいくらか物足りなそうな顔色で出ていくのといれちがいに、お幾が茶と菓子をもってきたがそのお幾の腰にもつれるように、ちょろちょろ入ってきたのは三つ四つのかわいい坊やだ。 「ああ、おかみさん、その子があんたの|姪《めい》|御《ご》さんのわすれがたみなの」  金田一耕助がたずねると、 「はい。この熊の湯の一粒種でございます。いつまでたってもおねんねで……これ、啓坊や、ちゃんとお手々ついて、お客様にこんにちはするんですよ」  まだ三つにしかならぬ啓一は、うっふっふとはにかみながらも、畳に手をついてペコンとお辞儀をすると、お幾の背中にすがりつく。 「あっはっは、坊やはお利口だ。そらこのお菓子あげよ」  金田一耕助が箸で|最《も》|中《なか》をつまんでやると、啓一はお幾の肩につかまったまま、うっふっふとはずかしそうに笑っていたが、それでも、 「それそれ、啓坊、お客様があげるとおっしゃるんだからちょうだいしなさい」  と、お幾にうながされると、金田一耕助のまえに立て膝をそろえてかわいいふたつの掌をかさねた。色白の器量もしつけもよい坊やだ。 「あっはっは、なかなかいい坊やだ。おかみさんも楽しみだね」 「はい、この子がいてくれるので、わたしも生きる張り合いがあるというもので……さあ、啓坊、お客様のお邪魔になるといけませんから、むこうへいきましょう」  啓一の手をひいてお幾が立ちかけるのを、 「ああ、ちょっと」  と、金田一耕助が呼びとめて、 「映画の連中どうしてる?」 「はい、さっきぶらぶらしててもつまらないから、撮影をつづけようと、みなさんで名主の滝のほうへいらっしゃいました」 「撮影をつづける……? 監督もいないのに?」 「ええ、でも、土井さんがいらっしゃいますから……あと、ほんの二、三場面だそうで」 「ああ、そうか。助監督がいたんだっけ。ところでおかみさん、一昨日の晩……里村監督が殺された晩だね、香川君や土井君ははやく寝たの?」 「いいえ、それが……みなさんがお立ちになって急に静かになったもんですから、かえって寝られないとおっしゃって、香川さんも土井さんもわたしの居間へいらして、時計が十二時を打つまで話していらしたんですよ。菊なんかもいっしょだったんです」  磯川警部にもそのときはじめて、金田一耕助の質問の意味がのみこめた。十二時までここで話しこんでいたとすれば、ふたりは完全に容疑の圏外へおかれるわけだ。熊の湯からお|籠《こも》り堂まで二十丁あまりの登りの坂道。ことに夜ともなれば足下があぶないから、どうしても一時間以上はかかるだろう。犯行の時刻は十二時前後というのだから、ふたりには完全にアリバイが成立するわけだ。 「ああ、それからもうひとつ、この離れの座敷だがね。ここはあんたの姪御さんの部屋だったそうだが、姪御さんがお亡くなりになって以来、ずっと閉め切ってあるの。それともこんどのわれわれみたいにお客さんをいれることもあるの?」 「はあ、お客様がたてこんで母屋だけではどうしても、お座敷のやりくりがつかぬときには……」 「ああ、そう、最近にはどういうお客様がお入りになったの?」 「さあ……」  と、お幾は不思議そうに耕助の顔を見ていたが、 「そうそう、先月の終わりごろでした。ロケーション・ハンチングというんですの。里村先生がいらしたんですが、そのときあいにく団体客があって、母屋のほうがふさがっておりましたので、ここに泊まっていただきました」 「里村さん、おひとり?」 「いいえ、マネジャーの都築さんというかた……このかたきのうお立ちになったんですが、そのかたと土井さんの三人でした。そのときここが気にいって、ロケーション地とおきめになったんです」 「ああ、そう、ありがとう。じゃあ、これくらいで……坊や、おとなしくしておばあちゃんのいうことをよくきくんだよ」 「はあい!」  活発な返事をのこして啓一が、お幾に手をひかれて出ていくと、金田一耕助はちょっとぬれたような目をして、もじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、 「警部さん、警部さん、これからちょっと名主の滝へいって、撮影を見物してこようじゃありませんか」  と、急に|袴《はかま》をさばいて立ちあがった。  熊の湯を出るとあいかわらず、警官たちや新聞記者が右往左往していて、きのうの興奮はまだすこしも緩和されていない。おそらくここ当分、この興奮と緊張はつづくのだろう。 「ときに金田一さん、さっきの質問ですがね。あれはどういう意味なんですか」 「さっきの質問というと……?」 「ほら、あの離れへ泊まった客があるかないかなどと……あそこへ先月の終わりに里村監督が来て泊まったということに、なにか特別の意味があるんですか」  金田一耕助はちらと警部の顔を見て、 「いやあ、べつに……ただ、ちょっときいてみたんです。それよりねえ、警部さん。ぼくは田口玄蔵という男に興味があるんですがね」 「田口玄蔵……? ああ、手ぬぐいを落としていった男ですね。|松《まつ》|茸《たけ》を盗むとかいう……そいつがなにか……」 「松茸ぬすみは朝にきまってるというんでしょう。それで朝はやくあの道をとおったとしたら、獄門岩の上に生首がのっかってることに気がついたはずですよね。夕方とちがって午前中は、朝日が真正面からあの滝を照らしてるんですからね。それにもかかわらず田口玄蔵は、なぜだんまりですましたんでしょうね」 「ああ、それは……」  と、磯川警部は気になるように、金田一耕助の顔色をうかがいながら、 「やはり自分の行為にうしろめたいところがあったからじゃないですか。松茸ぬすみちゅう……」 「しかし、それくらいのことで……なにも松茸をぬすみにいったということは、いわなくてもいいんですからな。あれだけの大事件を発見したら、人情としてだまっていられるものじゃないと思うんですが……」 「金田一さん」  と、磯川警部はさぐるように、金田一耕助の横顔を見まもりながら、 「それじゃあんた田口玄蔵という男が、こんどの事件に関係していると……」 「いや、べつに関係しているとは思わないんですが、ぼくにとってはこのことが、よい参考資料になったということを申し上げたいんです」  磯川警部はまたさぐるように金田一耕助の横顔を見たが、すぐあきらめたように肩をすくめた。  この男はそれが適当とおもわれる時期がくるまで、絶対に口を割らない男なのだ……ということを、磯川警部はいままでの経験で、肝に銘じて知っている。しかも、この男の知ってることは、みんな自分も知っている。だからこの男の口を割るのを待つまでもなく自分も推理の積み木細工を、組み立てることができてもよいはずなのだ。それができないというのは……警部は結局自分の無能をあきらめ、この男が適当と思う時期がくるのを待つよりほかに手はなかった。  名主の滝の滝壺へおりていくと、きょうもいっぱいのひとだかりだった。なかにはあの恐ろしい獄門岩を撮影している物好きもあった。むろん生首はもう見えないのだが……。 「日本キネマの撮影はどこでやってるんですか」  金田一耕助が居合わせた刑事にたずねると、 「はあ、もう少し上手のほうです」 「ああ、そう、警部さん、いってみましょう」  屏風岩の背後をまわって、あのからかさ松の根もとまで来ると、筒井警部補が渋面をつくって、土地のものらしいおやじの訴えをきいていた。おやじはなにやら熱心に話しているのだが、警部補はいかにもうるさそうな顔色だった。 「筒井君、このじいさんがなにか……?」 「いえね、警部さん、つまらんことなんですよ。この赤松の根もとに馬頭観音がまつってあったのがなくなっている。これもきっとクニシン様のたたりにちがいないというんです。いやもう困ったもんで……」  筒井警部補は苦笑をもらしたが、それをきくと金田一耕助は突然ぎょっとしたように大きく目をみはった。  なるほど松の根もとの小高いところに、直径一尺ばかりの|御《み》|影《かげ》|石《いし》の台座があったが、その上にまつってあるべき馬頭観音が、なくなっている。しかもそれは一昨日、金田一耕助がここから獄門岩をのぞいたときには、たしかにそこにあったのだ。高さ一尺ばかりの、青い|苔《こけ》のむした石の馬頭観音……。 「け、警部さん、いきましょう。は、はやく撮影を見にいきましょう」  金田一耕助の目にさっとほとばしったかぎろいを見て、 「き、金田一さん! ば、馬頭観音がなにか……」 「いやあ、これでぼくの積み木細工は、完全に組み立てられたというわけです」  ふたりが屏風岩をのぼりつめて、滝の上流へさしかかったとき、むこうから谷沿いの道を、四人の男女がやってくるのが見えた。もう撮影はおわったのか、服部カメラマンは、カメラをかつぎ、土井助監督は直径一尺、高さ一尺五、六寸の、ブリキの缶をぶらさげている。フィルムを入れる缶である。 「ああ、もう撮影はおわったんですか」 「はあ、どうやら……土井さん、なかなかいい監督になりますよ」  香川千代と腕をくんだ内山進治郎がにこにこしながら答えた。 「そりゃそうでしょうねえ。なにしろすばらしい演出ですからね。もっとも離れの戸袋の天井裏から発見した指南書というものがあったせいもあるが……」  金田一耕助がにこにこしながら、妙なことをいったとたん、土井はぎょっとうしろへよろめいたが、そのひょうしに、ぶらさげていたブリキ缶が、ガラガラとすさまじい音を立てて道の上にころがった。 「いけませんよ。土井さん、あんたすでにもうひとつのブリキ缶を台なしにしてるんですからね。馬頭観音といっしょに……」  土井はまた一歩石ころだらけの渓流のほうへよろめいた。土色になったその顔を、内山と服部カメラマン、それから香川千代の三人が、おびえたような目で、見つめている。磯川警部がさっと緊張して、一歩まえへ出ようとするのを、なに思ったのか金田一耕助が腕をとってひきもどした。 「土井さん。あなた子どもはきらいですか。子どもはかわいいですね。そして、子どもには保護者が必要だってことね……おわかりでしょう」 「す、すみません!」  土井の唇からほとばしるような絶叫がもれたかと思うと、その体はまりのように弾んで渓流のなかへとびこんでいた。 「あ、ま、待て!」  磯川警部がさけんだとき、土井のからだはすでに奔騰する激流にもまれもまれて、滝の上へ押しながされていた。 「さようなら……スーツケースのなかにぼくの遺書が……」  |蒼《そう》|白《はく》の顔に微笑を浮かべて、土井は、二、三度手をふったが、つぎの瞬間、|飴《あめ》のような色をして盛りあがる水にのまれて、滝のむこうへ消えていった……。      八 「これだから日本みたいに時間的に不正確な国は困るんですな。犯行の時刻だって何時何分と正確に推定できるわけじゃなし、土井が半時間、熊の湯の時計をすすめておけば、ただこれだけのことで、けっこうアリバイが成立するんですからな」  熊の湯からさらに奥にある鶴温泉というのへ舞台をうつして、こんどこそゆっくり静養としゃれこんだとき、磯川警部は愚痴たらたらだった。  スーツケースのなかから発見された土井新の遺書によると、熊の湯の時計を半時間すすめておいて、十一時半に自分の部屋へさがると、それからすぐに山のお籠り堂へおもむいて、里村監督を殺害したというのである。  原因は恋愛|葛《かっ》|藤《とう》だった。土井の愛している女を里村が妊娠させ、堕胎薬を飲むことをすすめて死にいたらしめたというのである。その女に土井がほれていたとはだれも知らなかったが、そういう事実のあったことは、服部カメラマンも内山進治郎も知っていた。ただし、その女が堕胎薬を飲むことをすすめられたとは、これまただれも知らなかった。  こういう事実の裏付けがあっただけに、土井の遺書は真実として受け入れられ、さてこそいま磯川警部をして、正確なアリバイをつかむことの困難さをなげかせているのである。  金田一耕助は座布団をならべた上に、あおむけに寝ころがり、両手でもじゃもじゃ頭をかかえたまま、まじまじと天井の節穴をながめている。磯川警部はふとその横顔にうたがわしそうな視線をむけた。 「ねえ、金田一さん、これでこんどの事件は片付いたが、去年のはどうなんです。去年もやっぱりだれかが部落から、山のお|籠《こも》り堂へ出向いていったというんですか」  金田一耕助はそれには答えず、無言のままもじゃもじゃ頭をかきまわしている。なにかしら物悲しそうな顔色だった。 「金田一さん、あんた去年のことも知ってるんでしょう。なんだか土井にへんなことをいってたじゃありませんか。離れの戸袋の天井裏がどうのこうのって……それからブリキ缶と馬頭観音がどうしたというんです。金田一さん、話してくだすってもよいじゃありませんか」  金田一耕助はためいきをついた。 「しかし、ねえ、警部さん、それを知ろうとなさるには、職業的良心をお捨てにならなければなりませんよ」 「職業的良心をすてる……?」  磯川警部はギョッとしたように耕助の横顔を見る。 「ええ、そう、そのかわり人道的良心で御満足なさるんですな。悪は罰せられているんだから、これ以上あばき立ててもなんにもならない」  磯川警部は食いいるように耕助の顔をにらんでいたが、急に呼吸をはずませて、 「金田一さん、そ、それじゃ土井の遺書は真実じゃなかったとおっしゃるんですか。いつわりがあったというんですか」  金田一耕助がうるんだような目をしてうなずくのを見て、磯川警部はまたギョッと大きく呼吸をうちへ吸った。 「き、金田一さん! それじゃあの男は犯人でなく、真実の犯人はほかにあると……?」 「いいえ、それはそうではありません。犯人は土井です。しかし、犯行の手つづきについての告白にいつわりがあるんです」 「しかし、そりゃまたなぜに……?」 「警部さん」  金田一耕助はものうげな声で、 「田口玄蔵という男はあの朝、獄門岩の見える道を通りながら、なぜあの生首のことを騒ぎ立てなかったんでしょう。それはねえ、そのときにはまだあそこに生首がなかったからなんですよ」 「生首がなかったあ?」 「そうです、そうです。田口は生首を見なかったんです。だけどのちに生首騒ぎが起こったとき、はっきりそこに生首がなかったと申し立てる確信もなかったんですね。あったけれども見落としていたのかもしれない。だから、そんなことをいい出して、|松《まつ》|茸《たけ》ぬすみがばれるのもばからしいと、さてこそ知らん顔の半兵衛をきめこんだんですね」 「じゃ、あの生首はいつあそこへ……?」 「土井と香川が連れだって、山のお籠り堂へむかう途中だったでしょう。おそらく土井はなんらかの口実をもうけて、香川をひとあしさきにやり、さておもむろに……か、いそいでだか知らないが、フィルムをいれるブリキ缶から首をとりだし、それを屏風岩のてっぺんから、獄門岩の上に投げおろしたんです」 「き、金田一さん! それじゃ犯行の現場は……?」 「むろん熊の湯ですよ。里村監督は香川をくどくつもりで、山のお籠り堂へ服部と内山を連れだして、そこでふたりを眠らせると、ひそかに熊の湯へひきかえしたんです。おそらくそうするように土井がけしかけたんでしょうね。里村監督は土井新が自分に対して殺意を抱いていようなどとは、夢にも知らなかったもんだから、まんまとその手に乗ったわけです。そこで土井がひと突きにそれを突きころし、裏の渓流で、首と胴を切断して、胴のほうはそこから流し、首をフィルムをいれるブリキ缶へいれて、翌朝獄門岩まで運んだんです。つまりそうすることによって、犯行が山のお籠り堂で演じられたように見せかけたんです。ねえ警部さん」  と、金田一耕助はためいきをついて、 「被害者の身元をかくす意志もないのに、なぜまた首を切断するというような、厄介なしごとを犯人があえてしたのか、ぼくはそれが不思議でならなかったんですが、こう考えてくると謎がとけるわけです。つまり犯人は犯行の現場をくらますことによって、おのれのアリバイを立証しようとしたんだが、大の男を体ごと、ひと知れず山のお籠り堂まで運ぶことは不可能です。そこで首を切断するということが必要になったわけですね」 「しかし、土井はなぜまたそのことをはっきり遺書に……」 「いや、まあ、待ってください。そのまえにもうちょっと……ぼくはそこまで考えたが、しかし、それだと土井はからっぽのブリキ缶を……それもおそらく血だらけになっているだろうブリキ缶を、山のお籠り堂へもっていかねばならんわけです。むろん監督が死んでるのだから撮影はお流れになるでしょうが、そのまえに警部がフィルムを要求すればどうするつもりだったろう……と、そこのところに迷っていたところが、屏風岩のてっぺんの馬頭観音が紛失しているときいて、はじめてなにもかもわかったんです。土井はあらかじめあのへんへ、フィルムを入れたもうひとつの缶をかくしておき、生首をはこんだ缶には馬頭観音をおもしにつめて、|滝《たき》|壺《つぼ》のなかへ沈めたんですね」 「しかし……しかし……金田一さん、それじゃ土井はなぜそのことを……?」  金田一耕助はものかなしげな目を警部にむけて、 「警部さん、あなたの人道的良心にうったえたいんですがね。去年もおなじことが行なわれたんです」  磯川警部は、また、ギョッとして、金田一耕助の顔をにらみすえた。 「そ、それじゃ達夫も熊の湯で……」  と、その声は恐怖のために消えいりそうだった。 「そうです、そうです。去年も達夫は片山と伊豆を睡眠剤でねむらせておいて、ひそかに熊の湯へもどってきた。しかし、その目的はこんどとちがって、妻の道子を殺害するにあったんです。ところが思いがけない道子の抵抗にあって、もみあっているうちに、自分のもっている短刀でわれとわが心臓をつらぬいて死んだんです。そのあとで|叔母《おば》のお幾が姪をかばうために、ああいう非常手段を思いついたんですね。クニシン様のたたりを利用し、犯行はあくまで山で演じられたと見せかけようと。弁当といっしょに生首を山へはこんだんです。このことはお幾から告白をききました。お幾は覚悟をきめているといってましたが……」  磯川警部はまじろぎもせず金田一耕助の顔を見つめていたが、そのとき、卒然として頭に浮かんだのは、金田一耕助が土井にむかって、最後に呼びかけたことばである。 「子どもはかわいいですね。そして、子どもには保護者が必要だってことね……おわかりでしょう」……  熊の湯の一粒種のあのかわいい啓一には、お幾という存在がぜったいに必要なのだ。  磯川警部はぬれたような目で、あらためて金田一耕助の顔を見直した。 「それじゃ、土井は去年の事件の真相を知っていたんですね」 「そうです、そうです。そこにふたつの事件を結ぶ鎖があったわけです。道子は身投げするまえに、書き置きを書いてそのなかへ事件の真相をしたためておいた。そして、それをおそらく床脇の額のうしろへかくしておいたんでしょうが、すぐそのうしろの壁を鼠がくいやぶって、その遺書を戸袋の天井裏へひきずりこんだものだから、能の湯ではだれもそれに気がつかなかったんですな。ところが、先日ロケハンにやってきて、あの座敷へ泊まった土井が、偶然、それを発見して、それをおのれの計画に利用したというわけですね」  磯川警部はながいこと、しいんと黙って考えこんでいたが、ふとなにか思い出したように顔をあげると、 「それはそうと金田一さん、里村監督の胃の|腑《ふ》から睡眠剤が発見されたのは……?」 「警部さん、去年の達夫は睡眠剤を飲んでいなかったが、ことしの里村は飲んでいた。そこにふたつの事件の相違があると先日も申し上げましたね。と、いうことは去年の事件が偶然だったのに反して、こんどの事件はあらかじめ、周到に計画された事件だったんですね。お籠り堂から発見されるであろうコップから、睡眠剤が検出された場合、里村がそれを飲んでいないと、里村の計画に気がつくかもしれない。里村の計画に気がつくということは、土井の計画もわかってくるというわけです。そこで土井は熊の湯へひそかに舞いもどってきた里村に、気つけに一杯とかなんとか口実をもうけて、睡眠剤のまじった酒を飲ませたんじゃないでしょうかねえ。詳しいことはわかりませんが……」  なるほど、これで達夫の犬のことも、里村の靴のことも納得がいく。  達夫は、犬があとを追って来ないようにつないでおいたのだ。そして里村が靴をぬいだのは、お籠り堂ではなくて、熊の湯だったのだ。 「わかりました、金田一さん、土井は真実を書きのこすと、それからひいて去年の事件の真相が暴露し、お幾に迷惑がかかりゃあしないかと、それを恐れたんですね」 「そうです、そうです。そこに土井の人道的良心が、あったわけです。ところで、警部さん」  と、金田一耕助はだしぬけに、いたずらっぽい目を警部にむけると、 「あなたの職業的良心はいかがですか」  磯川警部はしばらくだまってまじまじと金田一耕助の目を見かえしていたが、やがて、にっこりと、人のよさそうな微笑を浮かべると、 「そりゃあねえ、金田一さん、職業的良心もたいせつかもしれんが人道的良心はそれ以上にたいせつですからな。あっはっは、どれ、金田一さん、これから、ゆっくりお風呂へでもつかって、今夜は、ひとつ、わたしの謡をきいていただきましょうか。どっこいしょっと」  と、磯川警部はちゃぶ台のはしに両手をついて、勢いよく大きなお|尻《しり》をおっ立てた。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 本書は『花園の悪魔』を改題したものです。 金田一耕助ファイル11 |首《くび》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年12月14日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『首』昭和51年11月10日初版発行       平成13年9月15日改版8版発行